以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。なお、前回の続きという名目で記事を書いているので、番号振り等も前回の続きから始めている。
3.集団行動・集団示威運動(デモ行進など)と公安条例・道路交通法による規制
・視点:①「動く集会」としてのデモ行進などは,各自治体の「公安条例ちなみに,この「公安条例」は,もともとは戦後に日本を占領していた GHQ に対する反対運動を押さえつけるために,GHQ の指導のもとに制定されたという経緯がある。GHQ が占領していた時代というのは,日本国憲法よりも GHQ(マッカーサー)の命令のほうが優位するような時代でもあったわけであり,その意味でも,この公安
条例が憲法の保障する集会の自由を十分に考慮したものかどうかについては,議論の余地もある。百選 82 事件の
解説などを参照。
」や国の「道路交通法」などにより,前回の2.で述べた公共施設の利用の場合と同様に「許可制」が
とられており,自治体等の「公安委員会」や「警察署長」などの許可を得なければならない。
②もっとも,前回の2.の公共施設の利用の場合,上述のように,管理権者が自由に不許可にできない場面が多いが,公安条例や道路交通法によるデモ行進の規制(許可制)の場合には,たとえば「社会の安全のため」という抽象的な文言に基づいてなされることが多い。そのため,国・自治体の裁量的判断(=どういうデモ行進が社会の安全を害するのか について公安委員会の側の自由な判断の余地)が働き,集会の自由・デモ行進の自由が過度に制限されるおそれもある。
③そこで学説では,集会・デモ行進を不許可にしうる場面を出来るだけ狭くすべきだという主張がなされてきた。具体的には,次のような主張が有力である。すなわち,
(ア)許可の目的 ⇒ ・一般公衆の道路・公園の利用を妨げる恐れがある
・集会の重複・競合を避ける
という二つの場面に限定(「治安維持」という,何でも含みうる抽象的な目的ないし警察的・消極的目的(国民の自由制限の目的)で不許可にしてはならない。「公の営造物」の管理目的ないし福祉的・積極的目的での管理権行使が,本来の姿)。
(イ)許可の手段 ⇒・「許可制」は行き過ぎであり「届出制」で足りる
・許可制であっても,許可の条件が明確かつ厳格に限定され,実質的には届出制と変わらないものである必要がある(=“こういう条件が備わっていれば原則として許可しなればならない”という条文のスタイルになっていれば○)
*許可制:原則・集会は禁止,例外・許容
*届出制:原則・集会は許容,例外・禁止
④判例も,一般論としては,この学説の主張を認めている。たとえば新潟県公安条例事件(最大判昭和 2 9・ 11・ 2 4,百選 82 事件 )で最高裁は,次のように述べている。
(ア)集団行進を許可制で一般的に事前に制限することは許されない。
(イ)しかし,集団行動の場所や方法について許可制をとることは,合理的で明確な基準が法令の中で設定されていれば,憲法違反(集会の自由の侵害)ではない。この場合には,表現
の一般的禁止ではなく,時・場所が制限されるにすぎないからである。
(ウ)ある集団行進を不許可にできるのは,その集会が公共の安全に対して明らかな差し迫った危険を及ぼすことが予見される場合だ,という許可条件を定めることも,集会の自由を不当に制約しない。
⑤もっとも,以下に示すその後の判例は,必ずしもこの(ア)~(ウ)の基準を厳しく適用せず,許可制を定める公安条例や道路交通法を合憲と判断し,また,具体的な不許可処分についても合憲・適法判断を重ねてきている。そのため,学説による批判が非常に多い
⑥なお,前回扱った泉佐野市民会館事件で最高裁は,“公道での集団行動”ではなく,
“「公の施設」(地方自治法 24 4 条)の利用”という事案ではあるが,上記(ウ)に類似す
る「明白かつ現在の危険」という観点を取り込んでおり,この点は評価を得ている。
・判例:①東京都公安条例事件(最大判昭和 3 5・ 7・ 2 0,百選 A8 事 件 )
⇒最高裁は,①許可の目的について,集団行動は,いわゆる「群集心理」によって「暴徒」になる恐れもあるので(集団暴徒化論),「法と秩序を維持」するために集団行動に対し事前の規制
(≒許可制)を加えることも許される,②また許可の手段について,問題となった条例は,「場所のいかんを問わず」・「道路その他の公共の場所で」集団行動をする際には許可が必要という定めになっているが,これでも許可基準が不明確とはいえず,また,秩序維持に対する危害が
「明らか」だといえない限り許可しなければならないという規定になっていること等に照らすと,実質的には届出制と変わらないと判断した。
なお,上記の新潟県公安条例事件では,問題となった公安条例に「許可推定条項」が置かれており,最高裁は,この点にも着目して,実質的に届出制と変わらないという判断を示していた。許可推定条項とは,たとえば集会目的で道路の使用許可を求め,それに対する自治体による許可・不許可の応答が,一定期間内に示されない場合には,許可されたものと推定する,
という条文であり,集会の自由に配慮したものといえる。しかし,この東京都公安条例には,
こうした許可推定条項は置かれていなかった。それにもかかわらず最高裁は,東京都公安条例事件では,上記の集団暴徒化論を強調しつつ,合憲判断を示している。この判断には学説上の批判も強く,新潟県公安条例事件の判旨を骨抜きにした,実質的な判例変更だという評価されることが多い。
②徳島市公安条例事件(最大判昭和 5 0・ 9・ 1 0,百選 83 事 件 )
③道路交通法による集団行動の規制(最判昭和 5 7・ 11・ 1 6,百選 8 5 事件)
⇒道路交通法 77 条 1 項 4 号は,「一般交通に著しい影響を及ぼすような通行の形態若しくは方法による道路を使用する行為又は道路に集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為」に対して
は,許可が必要だと定めていた。この規定が集会の自由(憲法 21 条 1 項)を侵害するか否かが問題となった。最高裁は,この許可制について,「交通の妨害のおそれがない」場合等には,道路の
使用を許可しなければならないと定めている道路交通法 77 条 2 項を挙げ(≒許可が原則なので,
実質的には届出制と変わらない),この程度の規制は「表現の自由に対する公共の福祉による必要かつ合理的な制限」という理由で合憲と判断。
4.その他の重要判例―広島市暴走族条例事件(最判平成 1 9・ 9・ 1 8,百選 8 4 事件)
・分析:①集団行動の事案ではなく,公園の集会利用に関する事案であり,また,上記の諸判例
とは異なり,事前の許可性が問題となった事案ではない。しかし,集会目的での公園の利用が,(a)集会の自由に含まれることを前提に,(b)その利用の制約を定める条例の合憲性,特に「過度広範性」が争点となり,結論としては「合憲限定解釈」が施され,条例は合憲とされた。
②(a)について,市の公園という場所の利用権を集会の自由に含めている点は,見方によっては公園が「伝統的パブリック・フォーラム」であることを前提にしているといえなくはないが,(b)それに見合った(=表現・集会の自由の重要性を意識した)厳格な違憲審査が行われているとは,必ずしも言えない部分もある。そのため,判例がパブリッ
ク・フォーラム論をどの程度意識しているのかついては異論もありうる。
* 判例の射程
・視点:①上記の通り,集会に対する事前の許可制が,集会の自由への制約として憲法上許されるかについて,非常に厳しいハードル(明白かつ現在の危険があるときのみ不許可にできる)を掲げた新潟県公安条例事例事件判決(百選 8 1 事件 )は,後の東京都公安条例事件(百選 A8 事件 )の「集団暴徒化論」によって,実質的には骨抜きにされている。そして実際,後の判例で,屋外での集会が問題となった事案では,東京都公安条例事件判決がよく引用される。上記の道交法の事件(百 選 8 5 事件 )のほか,幸福追求権の判例である京都府学連事件(百選
16 事件 )などがその例である。
②これに対し,新潟県公安条例事件の論旨(明白かつ現在の危険があるときのみ不許可にできる)は,上記の通り,泉佐野市民会館事件など,屋内の集会に引き継がれていると読むことはできる。
③なお,新潟県公安条例事件判決が示した表現の「場所・時間」の制限ならば,一定範囲で許される,という発想は,ビラ配布の規制などで「表現そのもの」と「手段」を区別する後の判例にも引き継がれている部分がある。
*参考:学説(通説) による表現の自由への規制・審査基準の分類(*判例ではないので注意)
(1) 検閲・事前抑制 ⇒最も厳格な基準(検閲は絶対禁止。事前抑制には「厳格かつ明確」な基準が必要。)
(2) 漠然不明確・過度に広汎な規制 ⇒厳格な基準(明確性の理論。)
(3) 表現内容規制
ア 高い価値の表現(「 自己統治の価値 」 と 結び付くもの 。 政治的表現)の規制
・例:政府の暴力的転覆を唱道する言論の規制 ⇒厳格な基準(「 明白かつ現在の 危険 」 の基準など )
イ 低い価値の表現(「 自己統治の価値 」 とは直接には結び付かないもの)の規制
・例:①名誉棄損的表現,性表現 ⇒類別的比較衡量(or「定義づけ衡量」)
②営利的言論(コ マ ー シ ャ ル) ⇒中間的な基準(LRA など )
(4) 表現内容中立規制 ⇒(原則として)中間的な基準(LRA の 基 準 )
(5)表現の自由と同程度の重要度をもった権利・利益が衝突している場合 ⇒個別的比較衡量論
・例:①表現の自由とプライバシー
②表現の自由(報道・取材の自由)と公正な裁判
(6)表現の「場」の提供を求める場合 ⇒「パブリック・フォーラム」
* 注意点―表現・集会の自由の違憲審査基準をめぐる判例と学説の関係
・視点:①表現の自由と,これに対立する利益のどちらが優越するかは,基本的には,
(a)表現の自由の重要度,
(b)表現の自由に対する規制の強さ,
((c)その事件で規制を必要だと判断する国の側の裁量(自由な判断の余地 )を尊重する必要性(裁判所にとって審査するのが難しい専門技術的 ・政策的な判断が必要な事件か )),
に照らしながら,どのくらい厳しい基準を用いて判断するかどうかを決め,そして,その基準に照らして違憲かどうか(法的効果)を判断する。
②そしてその際,
(a)重要な権利に対する(( 3 ) ア 政治的表現など),
(b)重大な制約があり(( 1 ) 事前抑制,(3)ア 思想の自由市場をゆがめる表現内容規制 など),
(c)特に国の側の裁量を尊重する事情がない場合(裁判所にとって審査するのが難しい専門技術的・政策的判断が必要でない事件の場合)
には,厳格な基準を用いるべきだということになる。この点は,表現の自由だけでなく,すべての人権制限の問題に共通する頭の使い方(思考様式 )である。
③もっとも,最高裁は,特に表現の自由の分野では,厳格な基準を用いて判断することが少なく(例外は( 1)事前抑制ぐらい),また,結論しか述べておらず,理由づけが簡素なものも多い。そこで,上にあげた学説上の議論を参考にしながら,判例の立論を
「補充」ないし「批判」しつつ,適切な基準を自分なりに設定して判断する必要がある。
④判例は,何らかの基準を示す場合でも,何度も確認している通り,「公共の福祉に合致する(正当な)目的のため必要かつ合理的な手段か否か(あるいは相当な手段か)」という基準一本で,ほとんどの事案に対応している。そして,上記の(a)~
(c)の点に照らしながら,その「必要」性(他に手段はないのか)や「合理」性(その手段は目的にとって役に立つのか),「相当」性(得られる利益と失われる利益のバランス)を,踏み込んで(厳格に)審査したり,緩やかに審査したりする,というやり方である。
⑤ただし,その際に判例は,上記③で述べた通り,どのくらいの厳格度で審査したのか,またその厳格度を採用した理由はどこにあるのか,を全く説明せずに,結論だけを述べることが多い。そのため,判例に依拠した立論をする場合には,各自でこうした基準の厳格度の決め手になるポイントを,学説の助けなどを借りながら「補充」しておく必要がある場合が,特に表現の自由の分野では多い。
⑥また,もちろん,判例の立論が妥当でないと思えば,それを「批判」して学説の基準に依拠することも,各人の判断において自由に行いうる。もっとも,その場合でも,必ず判例に言及し,明示的に批判した上で自説を展開することを,忘れないでほしい。そうしないと,判例を知らないものと読まれてしまうので注意のこと。
⑦なお,表現の自由と人格権(名誉 ・ プライバシー )が衝突している事案は,厳密に言うと,
国と個人の間の争いではなく,個人と個人との争いである。こういう場合には,上記①②とは違った考え方をする必要がある。
⑧また,(2)明確性・過度広範性が問題となった事案では,その不明確・過度広範な法令の文言を,憲法違反にならないように狭い意味で解釈(合憲限定解釈)できるかどうかが検討され(たとえば「 公の秩序を乱す恐 れ 」と いう 不明確・過 度広範な条文 は,その「 おそれ 」が「 明白」・
「切 迫 」 している場合, と限定するなど),その狭い意味に解釈した条文の要件に,問題となった当事者の行為が当たるかどうかが審査される。目的手段・衡量審査と合憲限定解釈との関係→なお,①不明確・過度広範な法令の文言を,法令(≠憲法)の文言・趣旨目的・体系に照らしながら限定解釈し,②さらにその限定解釈した法令について,目的・手段型の審査
をして,憲法違反か否かを確認する,という論じ方も,理論上は可能である(広島市暴走族条例事件など。法令解釈先行型)。
また,①ある法令の合憲性を目的・手段型で審査しつつ,その法令に違憲の部分(目的や手段に過剰な部分)が含まれている場合に,②その違憲の部分を規制の対象から外すような
限定解釈を,(法令の文言,趣旨目的,体系解釈も交えて)行い,法令自体は合憲だ,と論じることも可能である(泉佐野市民会館事件,「よど号」事件など。憲法解釈先行型)。
しかし,①ある法令の目的手段審査を行い,その法令を合憲だと結論づけた場合に,②
さらにその法令の限定解釈をする,という流れで論じるのは,極めて不自然である(限定解釈する必要があるということは,法令の目的・手段に過剰な部分があるということであり,最初に目的手段審査をした意味がなくなっている)。
⑨さらに,この泉佐野市民会館事件のように,(6)表現の「場」を求める事件の時
は,そもそも表現の自由への制約があるのかどうかが問題となる。これを肯定するためには,その「場」が表現目的で設置されている証拠(地方自治法244 条と自治体の設置条例など)を挙げる必要があることにも留意したい。
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