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2021年9月19日日曜日

集会の自由《公共施設の利用》

 以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。

1.意義 
・定義:①集会とは,多数人が政治・経済・学問・芸術・宗教などの問題に関する共通の目的をもって一定の場所に集まることをいう。 
    ②集団行動(集団行進,集団示威運動〔デモ行進〕)の自由も,「動く公共集会」として集会の自由に含まれうる。 
・判例:「集会は,国民が様々な意見や情報等に摂取することにより自己の思想や人格を形成,発展させ,また,相互に意見や情報等を伝達,交流する場として必要であり,さらに, 対外的に意見を表明するための有効な手段であるから,憲法 21 条 1 項の保障する集会 の自由は,民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならない」成田新法事件―最大判平成 4・7・1。百選 109 事件 
・特質:①表現の自由の保障のためには,表現をする「場」が必要である。しかし,たとえばテレビや新聞のようなマス・メディアという「場」を使って自分の意見を表現できる人は限られている(いわゆるマス・メディアへの「アクセス権」を認めることも難しい)。そのため,集会の自由の保障は,いわば一般国民の表現の場を確保するため,きわめて重要である(なお「ビラ貼り」・「街頭演説」のほか「インターネット上の表現」も,一般国民の表現手段として重要)。 
    ②他方,集会の自由は多数の人が集まる場所の提供に関わるものであり,さらに行動をともなうこともあるから,他者の権利と衝突しやすい。そのため「公共の福祉」 による規制を受けることがあるのはやむを得ない側面もある。具体的には次の二つの場面がよく問題になる(二つ目は次の項目で取り扱うことにする)。 
2.公共施設(公民館など)の利用 
・視点:①集会をするためには,一定の広さをもった「場」が必要となるが,広い場所だからといってそこで集会をすることが当然に認められるわけではない(豪邸の持ち主にそこで集会をさせろといえる権利は誰にもないし,国会が閉会中で空いているからといって国会議事堂内で集会をする権利は誰も持って いない)場を管理している者(管理権者)の「許可」を得ることが必要なのが通常である。国や自治体の施設を利用する場合に課される,こういう規制を「許可制」とい う。 
    ②他方,この「許可」を誰に(あるいはどのような集会に)対して出すのかを,その管理権者の自由な判断(自由裁量)に委ねてしまうと,集会の自由が憲法で保障された意味がなくなる恐れもある。この点,集会の自由が認められやすい場(管理権者が自由に不許可にできない場)と,そうでない場(管理権者が比較的自由に不許可にできる場)とを区別して考えるのが通例である国や自治体の施設は,学説上,「公の用に供される物(公物)」といわれ,これには次の二つのタイプがあると いわれる。すなわち,①官公庁・公用車など国・自治体自身が利用する「公用物」と,②公園・道路など公衆が 使用することが前提となっている「公共用物」である。先述の国会議事堂は①にあたり,後述の公民館などの「公の施設」(地方自治法 244 条)や皇居前広場などは②にあたる。一般論としては,②よりも①のほうが,管理権者 (国・自治体)は国民の集会としてのその施設の利用を自由に不許可にすることができる(裁量の幅が広い)といえる。くわしくは「行政法」で。。 
(1)「公の施設」(地方自治法 244 条) 
・条文:「公の施設」(地方公共団体が住民の福祉の増進のために設けた施設。公民館など。地方自治法 244 条)にあたる場合 
 ⇒地方公共団体は,正当な理由がない限り,住民が公の施設を利用することを拒ん ではならず,利用について住民を差別してはならない(同条 2・3 項)
 ⇒「正当な理由」の具体的な内容は,自治体が条例で定めていることが多い。 
・帰結:正当な理由のない利用拒否は,憲法上の集会の自由(憲法 21 条 1 項)の侵害になりうる(ただし,このように素朴に言えるのかは,実は極めて重要な論点である。以下のもう一歩前へを参照)。 
・判例:泉佐野市民会館事件(最判平成 7・3・7,百選 81 事件)
(2)「公共用財産」(国有財産法 3 条 2 項 2 号)―皇居前広場事件(最大判昭和 28・12・13,百選 80 事件) 
・判旨:皇居前広場で,メーデーの集会(約 50 万人が集まる)の許可を求めたが,広場の管理権者である厚生大臣(当時)が不許可にしたという事件。最高裁は,①皇居前広場は「公共〔福祉〕用財産」(国有財産法 3 条 2 項)にあたり,②これを国民が,この広場の設置目的の範囲内で利用する場合(集会目的での利用は広場の設置目的の範囲内である),許可するか不許可にするかは管理権者の「自由裁量」ではなく,その「財産の種類に応じ,またその規模,施設を勘案し,その公共福祉用財産としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであり,若しその行使を誤り,国民の利用を 妨げるにおいては,違法たるを免れない」と述べ,国民の集会の自由に一定の配慮を示した。③しかし,結論としては,この 50 万人という大規模の集会を許可すると,長時間にわたり他の一般国民が広場を利用できなくなり,広場の本来の利用が妨げられる恐れがあること,自然公園がかなり傷んでしまう恐れがあること,本件不許可処分は表現の自由を制約する目的でなされたものではないこと(集会・デモ行進を禁止・許可する権限は法律で大臣に与えられていないが,そうした権限外の行為を大臣が行ったわけではない),等の理由から,不許可処分は適法・合憲だとした。 
(3)参考①:施設の「目的外利用」―広島教研集会事件(最判平成 18・2・7) 
・内容:ある公立中学校の体育館を利用して,市内の中学校の教員が集まって「教育研究集会」―教育委員会が実施する法定の研修に反対する意見を持つ教員による集会であり,教育方法についての自主的な研修という側面と,国・教育委員会の方針等に反対する政治・労働集会という側面もある集会―を 行う,というような,その施設の本来の目的とは異なる使い方(目的外利用)をする場合,使用の許可・不許可について,管理権者(校長)の裁量が認められ(やすくな)る。公立学校は「公の施設」(地 方自治法 244 条)だが,学校施設は「行政財産」(同 238 条)であり,設置目的たる教育目的に沿った利用は「公の施設」の利用になるが,目的外での利用は「公の施設」の利用にならない。 
・判例:①「学校教育上支障があれば使用を許可することができないことは明らかであるが,そのような支障がないからといって当然に許可しなければならないものではなく,行政財産である学校施設の目的及び用途と目的外使用の目的,態様等との関係に配慮した合理的な裁量判断により使用許可をしないこともできる」。 
    ②「管理者の裁量判断は,……諸般の事情を総合考慮してされるものであり,その裁量権の行使が逸脱濫用に当たるか否かの司法審査においては,その判断が裁量権の行使としてされたことを前提とした上で,その判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し,その判断が, 重要な事実の基礎を欠くか,又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限 って,裁量権の逸脱又は濫用として違法となる」。 
    ③「従前,同一目的での使用許可申請を物理的支障のない限り許可してきたという運用があったとし ても,そのことから直ちに,従前と異なる取扱いをすることが裁量権の濫用となるものではない。 もっとも,従前の許可の運用は,使用目的の相当性やこれと異なる取扱いの動機の不当性を推認させることがあったり,比例原則ないし平等原則の観点から,裁量権濫用に当たるか否かの判断において考慮すべき要素となったりすることは否定できない。」 
    ④「〔本件集会を許可すると,この集会に反対する右翼団体の街宣車等が訪れて〕本件中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き,児童生徒に教育上悪影響を与え,学校教育に支障を来すことが予想されるとの理由で行われた本件不許可処分は,重視すべきでない考慮要素を重視するなど,考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており〔=不許可にした時点で,右翼団体による具体的な妨害の動きはなく,仮に当日に妨害があっても土日のため生徒への影響は小さく,むしろ不許可処分は教育委員会と教師との衝突を背景にしている〕,他方,当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず〔教研集会は,政治・動労運動という側面もあるが,それは前面に押し出されているわけではなく,全体として教育方法等についての自主的な研修という法の趣旨にも合致する集会であり,以前は同じ集会が長らく許可されてきた。また集会の際に学校施設を使わないと教育用の器具等の調達も不便〕,その結果,社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものということができる」。 
(4)参考②:民間の施設の利用―プリンスホテル事件(東京高決平成 18・1・30) 
・判例:日教組の集会の開催をいったん引き受けたプリンスホテルが,後にこの集会利用の契約を解約した。 これが集会の自由の侵害になるかどうか等が争われた。東京高裁は,“いったん契約を結んだ以上,正当な理由がない限り解約してはならない”と述べ,会場を使用させることをホテル側に命じた。他方, そもそも契約に応じる義務があるか,つまりホテルが集会としての使用を自由に拒否できないのか, という問題については,明らかにされなかった。
もう一歩前へ:「社会権」(?) パブリック・フォーラム(?) 
 以上のように,自治体が設置した施設を,住民が集会目的で利用しようとする場合,その自治体の施設が,広く住民に利用させることを目的とした「公の財産」(地方自治法 244 条)にあたる時には,自治体がその利用を「正当な理由」なく拒否すると,憲法上の集会の自由(21 条 1 項)の侵害になると言われる(上記(1)等)。逆に,施設の設置目的が,広く国民・住民に集会目的で利用させることにあるとはいえない場合―官公庁や学校など―,集会目的での利用は「目的外利用」 という扱いになり,その利用を拒否しても,必ずしも集会の自由の侵害の問題はただちには生じないと言われる(上記(3)等)。 
 
 もっとも,よくよく考えてみると,上記(1)の場合,どうして市民会館や公民館のような「法律」(地方自治法)上の「公の財産」の利用を拒否すると,「憲法」上の集会の「自由」が侵害されることになるのかは,実は必ずしも単純ではない。どういうことか,以下に少しくわしく説明する。 
 
 そもそも集会の「自由」(憲法 21 条 1 項)というものは,「自由権」として,集会が国によって妨害されないことを保障するものであり,2.の冒頭で述べたように,集会のための「場」を国に使 わせてくれと要求する権利=「社会権・請求権」は,集会の「自由」からは,ただちには出てこないはずである。 

自由権と社会権:自由権とは国に対して「何もするな」ということ(不作為)を要求する権利である。信教の自由,思想の自由など,憲法上の権利のほとんどはこのタイプである。これに対し,社会権(請求権・給付請求権)とは国に対して「何かをしてほしい」 ということ(作為)を要求する権利である。生活保護を国に要求する生存権(25 条)が典型例である。 

 いうまでもなく,国民・住民は,国や自治体に対し,公民館や市民会館を設置してほしいと要求する権利はもっていない。そのため,国も,公民館や市民会館を設置する義務があるわけではない。国・自治体が公民館等の「公の施設」を作らなくても,集会の自由は侵害されない。作るかどうかは国・自治体の自由(裁量)である。それなのにどうして,国・自治体がいったん「公の施設」を作ると,その利用を国・自治体が拒否したら,集会の自由の侵害になるのか。つまり, 集会の自由は,表現の「場」を作ってくれと要求する権利=請求権を含んでいない以上,国がたまたま作ったその「場」を使わせてくれと要求する権利=請求権も,集会の自由からは出てこないのではないか,したがって,その「場」の利用拒否は,憲法上の集会の自由の侵害にはならないのではないか,という問題が出てくる。 

 たしかに,「正当な理由」のない「公の施設」の利用拒否は,地方自治法等の法律には違反する。 しかしこれが,なぜ憲法上の集会の自由の侵害につながるのか。この点については,学説上いろいろな考え方が提示されている。 

(ア)考え方 A:集会の自由の「社会権(請求権)」的側面が法律(地方自治法等)によって具体化 
 集会の自由は,たしかに基本的には「自由権」であるが,「自由権」に分類される権利にも「社会権」と しての側面があると,一般に言われている。たとえば「知る権利」は,基本的には情報の収集を妨害されない権利=自由権であるが,さらに国の持っている情報の開示を求める情報公開請求権=社会権の側面があると言われている。これと同様に,集会の自由にも,単に集会を妨害されない自由権だけでな く,集会の場の提供を求める社会権も含まれると考えるわけである。もっとも,このような「社会権」としての側面は,憲法から直接導くことはできず,法律による具体化が必要だと言われる(「抽象的権利」といわれる)。この点,たとえば公の施設について定める地方自治法 244 条が,この集会の自由の社会権としての側面を具体化した法律だと考え,憲法(21 条 1 項の社会権としての側面)と法律(地方自治法 244 条)と が一体となって憲法問題が生じる,と考えるわけである。 
(イ)考え方 B:パブリック・フォーラム(くわしくは,百選 57 事件の解説や参考文献を参照) 
 学説では,アメリカの判例を参考に,人が自由に出入りし,意見を交わすことができる公共の場所を「パブリック・フォーラム」と呼び,その公共の場所が表現の場として要求された時には (集会のほか,ビラ貼り,演説など),その制限は憲法上の表現(集会)の自由の侵害の問題になり得ると言われている。この理論によれば,公共財産は次の三つに区別される。 

伝統的パブリック・フォーラム(道路・歩道・公園等)⇒国は,表現目的でのその場の使用を禁止できないのが原則。禁止・規制が合憲となるためには,厳格な基準が適用される(規制は重要な目的のための必要最小限度の手段である必要) 
指定的パブリック・フォーラム(公会堂・公立劇場等)⇒国が表現(集会などの)目的で設置した施設であるため,①と同様に,国は,表現目的でのその場の利用を禁止できず,その利用の規制に対しては, 厳格な基準が適用される(ただし,その施設を維持する義務は国にない)。 
非パブリック・フォーラム(その他の公共財産)⇒利用を許可するかは,原則として国の裁量。ただし, 国は,表現者の見解に反対だという理由で,その利用を拒んではならない。「見解による差別の禁止 

 たとえば道路でデモ行進をする自由は,一般に表現の自由の保障を受けると考えられているが (徳島市公安条例事件など),これもよくよく考えてみれば,道路という国が作った施設を,表現目的で使わせてほしいと要求する請求権・社会権としての側面がある。だが,少なくとも道路で表現行為をすることは,長らく当然のように認められてきたことから,表現の自由にもともと含まれている,と考えるのが,①伝統的パブリック・フォーラムの考え方である。この①伝統的パブ リック・フォーラムを,道路以外の②公民館などの指定的パブリック・フォーラムなどにも広げていこう,という発想である。 
 
 このパブリック・フォーラムの理論によれば,上記の考え方 A のような,「自由権か社会権か」 とか「憲法と法律(地方自治法)の関係」などの難しい問題をさしあたり棚上げにして,表現の「場」 の利用という問題を,憲法(集会の自由・表現の自由)の問題として素朴に扱うことができるように見えるため,比較的有力に主張されてきた。この理論によれば,公民館や市民会館は,表現・集会を市民にさせる目的で自治体が設置した施設だと解釈できる手掛かり(公民館や市民会館を設置する条例の目的 に「住民の集会」が含まれているなど)がある場合には,②指定的パブリック・フォーラムということになり, 正当な理由のない利用拒否は,憲法上の集会の自由の侵害の問題となる,と比較的単純に立論することもできるかもしれない(もっとも,具体的にどの施設がどの類型にあたるのかという判断は,必ずしも容易ではない等々の理由から,この理論は,当のアメリカ合衆国では,あまり重視されなくなりつつあるという指摘もある。そのため,この区分を絶対化する必要は全くないかと思われるが,集会の自由の規制の合憲性を考える上での,一つの「目安」にはなるかもしれない)。 
(ウ)最高裁の立場は? 
 最高裁は泉佐野市民会館事件で,上記の考え方 A自由権と社会権の違い,社会権の具体化立法)・考え方 B パブリック・フォーラム)のような議論には特に触れず,地方自治法 224 条の「公の施設」の利用を「正当な理由」なく拒否すると,憲法 21 条 1 項で保障された集会の自由が不当に制限される恐れがある,と素朴といえば素朴に,慎重といえば慎重に語っている(調査官解説は,判決は B の考えを念頭に置いているというが,いずれにしてもこの点は判決文には登場せず,理論的には物足りない印象もある。また後述のように,調査官は,集会の自由はあくまで自由権であるという観点から,「憲法上…本件会館の利用請求権があるとすることは問題がある」としており,A の考え方からも距離がある。)。 
 あえて,判例の立場を学説とつなげていえば,地方自治法 244 条の「公の施設」の一つとして 自治体が条例に基づいて設置した市民会館等は,住民に「集会」をさせる目的で自治体が設置した施設であり,その意味で,上記②の指定的パブリック・フォーラムにあたる,という考えを, 最高裁の判旨に読み込むことも,理論上は不可能ではないかもしれない。すなわち,「公の施設」 の一つとして集会目的で設置された市民会館は指定的パブリック・フォーラムと評価できるため, その施設の利用拒否は,憲法上の集会の自由の制約になると判断された,と再構成することはできるかもしれない(その上で,その利用拒否が許されるかどうかは,「正当な理由」(地方自治法 244 条)にあたるかどうか,という問題になり,その際には,憲法上の集会の自由を不当に侵害しないように,「正当な理由」の内容を限定的に解釈することとなる(「公の秩序」を乱す恐れが「明白」「切迫」している時だけ「正当な理由」になり利用拒否できる,とするなど)。 
 このように,仮に判例の立論を,あえてパブリック・フォーラム論と結びつけるとしても,判例の立論を軸に考えた場合には,ある施設が,②指定的パブリック・フォーラムにあたるかどうかは,その施設を国・自治体が「表現・集会の目的」で設置したと評価できるかどうかに左右される。そして,ある施設が,住民が表現目的で自由に利用できる「公の施設」(地方自治法 244 条)だといえるかどうかは,その施設を設置する根拠となる法律や条例の目的規定(1 条など,その施設の目的の一つに「住民の集会のため」と書いている規定など)を見て判断することになる。 
 そのため,単に「この施設は指定的パブリック・フォーラムにあたるから,利用拒否が集会の自由の制約にあたる」と述べるだけでは不十分であり,地方自治法 244 条と,その施設の設置根拠となっている法律・条例の目的規定(1 条など)を挙げる必要がある(もちろん,こうした「法律(条例)」の規定のあり方が,「憲法」上の保障の有無を左右する(憲法上の保障内容を法律から逆推論)というのは,憲法の最高法規性(憲法 98 条 1 項)から するとおかしいのではないか,という批判はありうる。この意味でも,純粋な憲法論を目指す学説上のパブリック・フォーラム論と,法律の規定のあり方を重視する判例の立場は,やはり異なる部分がある。判例の立場を前提としつつ,こうした「逆推論」の弊害を避けるためには,たとえば, 地方自治法 244 条は,憲法上の要請の「確認」規定であって「創設」規定ではない,という観点を導入するやり方もありうる。なお,調査官は,先述のように,集会の自由はあくまで自由権であるという観点から,「憲法上…本件会館の利用請求権があるとすることは問題がある」が,「『平等な 利用』を妨げられない権利があるということができる」といい,本判決が,“集会の自由を不当に制限するおそれがある”という微妙な表現にとどめているのも,この考えのあらわれであるという。憲法論よりは地方自治法の解釈論が軸に置かれている最判解民事編平成 7 年度 296 頁〔近藤崇晴〕。こうした判例の立論の背後には,憲法上のパブリック・フォーラ ム論よりも,「給付における公平性」という,民法(契約自由)とは異なる行政法上の法律解釈論(「公の営造物」 論)が置かれているという指摘について,櫻井智章『判例で読む憲法』(北樹出版,改訂版,2019 年)156 頁。なお,同 167 頁は,パブリック・フォーラム論は,伝統的パブリック・フォーラムに当たるはずの道路や公園等の判例を説明できないという

 これに関連して,公立図書館の職員が,図書館に所蔵されていた本を,自分の思想に合わないという理由で独断で廃棄したことが,その本の著作者の表現の自由の侵害になるか,という点が争われた事件がある(船橋市西図書館蔵書廃棄事件:最判平成 17・7・14。百選 74 事件)。この事件にも,上で述べた問題と類似の問題が含まれている。そもそも本の著者は,たしかに表現の自由を有しているが, しかし,表現の自由=自由権があるからといって,国に対して,図書館を設置してほしいとか, 自分の本を図書館に入れてほしいと要求する権利=請求権があるわけではない。図書館を作るかどうか,作った図書館にどのような本を入れるかどうかは,基本的に国の自由(裁量)である。そうすると,たまたまその図書館に置かれることになった本の著者は,やはりその自分の本を図書 館に置き続けてくれと要求する憲法上の権利=請求権は有しておらず,したがって蔵書を廃棄しても,著者の表現の自由は侵害されないのではないか,という問題が生じる。この点について最高裁は,結論としては,著者の権利が侵害されたと判断したが,その際,なぜ表現の自由が関わるのか(図書館は著者のためのパブリック・フォーラムなのか)について詳しく述べていない。表現の自由というよりも「人格権」(人格的利益)の侵害として構成しているように見えるなお,このようなかたちで,国や自治体が,図書館や美術館,公民館などの国立・公立の施設について,特定の思想を持った人には使わせないということを行ったり,特定の思想を持った人だけに国が援助をしたり,援助の条件として「政府を批判しないこと」という条件(違憲の条件)をつける,ということが行われると,国が特定の思想を支持し,あるいは特定の思想に反対している,というメッセージを(図書館や美術館などの専門家の判断を隠れみのにして)国民に送ることになる。こうした問題が,最近の学説では,「政府言論(government speech)」 というかたちで議論されている。詳しくは,蟻川恒正「政府と言論」ジュリスト 1244 号(2003 年)91 頁のほか, 百選 70 事件の引用文献を参照のこと。
(エ)目的外利用や非パブリック・フォーラムの利用の場合には? 
 目的外利用や非パブリック・フォーラムの利用の場合には,その場を表現目的で利用する行為が憲法 21 条 1 項(集会の自由)で保障されている,とは言いにくい側面もある。この場合,憲法論として何が言えるのかは,学説でもまだ議論が固まっていないところではあるが,次のような方法が一応考えられる。無難なのは①か②であろう。 

①利用の不許可が「見解・観点に基づく差別」に基づく場合,憲法 14 条違反(平等原則違反)を主張 
「見解・観点に基づく差別」,「見解中立性」への違反(客観法違反。憲法 14 条か,あるいは同 21 条 1 項と 14 条を合わせて持ち出す)があったことを,不許可処分の根拠となった行政法規の解釈の中で持ち出し,行政裁量を狭める事由にする(行政庁の広い裁量にゆだねるのではなく,行政庁の判断過程を厳格に審査するなど) 
③「見解・観点に基づく差別」,「見解中立性」への違反があったことを,損害賠償請求訴訟の中で,私法上の被侵害利益(人格的利益)の認定の際に持ち出す(船橋市蔵書廃棄事件のアプローチ) 
 ④素朴に憲法 21 条 1 項(権利)の違反として論じる(最後の手段) 

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