・結論:検閲とは,表現行為に先立ち行政権がその内容を事前に審査し,不適当と認める場合にその表現行為を禁止することを意味する佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂,2011 年)256 頁。
・理由:検閲禁止の絶対性を貫くためには,その主体を行政権に限定する必要がある。
・帰結:裁判所による差止めは,憲法が禁止する検閲には該当しない(裁判所による事前差止めは,「表現物の内容の網羅的一般的な審査に基づく事前規制が行政機関によりそれ自体を目的として行われる場合とは異なり,個別的な私人間の紛争につい
て,司法裁判所により,当事者の申請に基づ」いて行われるものであるため,「検閲」には該当しない(「北方ジャーナル」事件)。
B 説(公権力説,相対禁止(=例外を認める)説)
・結論:検閲の主体は,行政権に限定されず,広く公権力と解すべきである。
・帰結:裁判所による差止めも検閲に該当しうる。ただし,「裁判所による場合には,その手続きが公正な法の手続きによるものであるから,行政権による検閲とは異なり,例外的な場合(たとえば公表されると人の名誉・プライバシーに取返しがつかないような重大な損害が生ずる場合)には,厳格かつ明確な要件のもとで許されることもある」。
イ 規制の対象
①思想内容説⇒思想にかかわらない教科書検定は検閲には該当しない(東京地判昭和 45・7・17,百選 87 事件)
②表現行為説⇒教科書検定も検閲になり得る。
ウ 規制の時期
①発表前説⇒行政機関による一定図書の「有害図書指定」は,発表後に行なわれるものである以上,検閲にはあたらない(岐阜県青少年保護育成条例事件,百選 50 事件)。
②受領前説⇒発表後でも国民の受領前に行われる有害図書指定は,検閲に該当しうる。
エ 規制内容・効果
①発表禁止説⇒他の発表手段を用いることが禁止されていなければ検閲には該当しない。たとえば,教科書検定は,検定不合格となった図書を一般図書として販売することについて禁止されていなければ,検閲にはあたらない(最判平成 5・3・16,百選 88 事件)。
②表現行為禁止説⇒教科書として販売したい,という表現行為を禁止すること自体が検閲になる。
*判例の立場の確認
① 最高裁は,検閲について,基本的にこれを狭く捉える立場に立っており,上記ア(行政権)・イ(思想内容)・
ウ(発表前)・エ(発表禁止)という特徴を有するものと定義している。もっとも,判例はさらにオ「網羅的・一般的」な審査をするのが検閲だ,という要素も付け加え,検閲を狭く捉える学説よりもさらに狭い定義を用いている。これに対しては,検閲を狭く捉える学説からも,狭すぎるという批判がある(佐藤・上掲書)。
なお,この「網羅的・一般的」な審査という要素があるため,刑務所などでの親書・新聞の閲読制限(参照,
「よど号」事件(最大判昭和 59・6・22,百選 14 事件))は,“特定の人の一部の表現物”に規制の範囲が限
定されるため,検閲には当たらないことになると,税関検査事件の調査官解説は言う(最判解民事編昭和 59
年度 488 頁〔新村正人〕)。
② 他方で,最高裁の立場では,これらア~オの特徴を一つでも欠いていれば,それは検閲には当たらない, と単純に判断されているわけではなさそうである。たとえば税関検査事件で最高裁は,検査の対象となる本は国外で発表済みであり発表の機会を全面的に奪うものではなく「事前抑制そのもの」ではない(ウ・エの色彩が弱い),税関検査は思想内容等それ自体を網羅的に審査する目的ではない(イ・オを欠く),裁判所による審査の機会もあり行政権の判断が最終的ではない(アの色彩が弱い),という点を「総合的に考察」して,
検閲ではないと判断している。また,北方ジャーナル事件も上記のように,ア出版差止は行政権ではなく裁判所が行うから,という点だけでなく,オ当事者の申請による個別的な審査で,網羅的一般的な審査ではない,という点などを考慮して,検閲ではないと判断している。さらに最高裁は,イ検閲の対象について,思想内容「等」という表現を用いている。そのため,少なくとも文言の上では,思想内容以外の表現物を審査の対象とするものであっても,検閲に当たる可能性は,理論上は残されている。“審査の対象が思想内容ではないから”という理由だけで,それは検閲ではない,という結論にすぐに達するわけではなさそうである。
③ このように,判例の立場に依拠して検閲に当たるかどうかを判断する際には,ア~オのどれか一つについ
て検討すれば十分というわけではなさそうなので,複数の要素を検討しながら,これらを「総合的に考察」
して結論を出すほうが丁寧な論証になる。税関検査事件判決の調査官解説も同様のことを述べており,その際,同判決は,検閲の要素を厳密に過不足なく定義しつくしているわけではなく,上記ア~オはあくまで検閲の「特質」だと述べるにとどめているという(新村・前掲 489 頁)。
3.「事前抑制の禁止」の原則―「北方ジャーナル」事件判決(最大判昭和 61・6・11,百選 68 事件)
・判旨:「表現行為に対する事前抑制は,表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法 21 条の趣旨に
照らし,厳格かつ明確な要件の下においてのみ許容され得る」。
・根拠:①表現行為に対する事前抑制は,思想の自由市場への流通を阻害し,その表現物への公の批判の機会を減少させる。
②事前抑制は,その性質上,予測に基づくものとならざるを得ない以上,事後制裁(出版後の損害賠償など)の場合にと比べて広汎にわたりやすい。
③実際上の抑止的効果(表現の自由へのダメージ)が事後制裁の場合より大きい。
*「検閲」と「事前抑制の禁止」との関係
・視点:①検閲と事前抑制の禁止については,特に区別しない見解(芦部・前掲書 207 頁)と,両者を
区別する見解とがある。
②両者を区別しない見解(芦部説)によれば,裁判所の差止めも「検閲」(憲法 21 条 2 項)の
問題となる。
③これに対し最高裁は,上記の「北方ジャーナル」事件判決において,「検閲」と「事前抑制」を区別する見解を採用している。判例によれば,両者の違いは次のようである。
(ア)根拠条文 検閲禁止:21 条 2 項、事前抑制:21 条 1 項と 21 条 2 項の両方の「趣旨」
(イ)主体 検閲禁止:行政権、事前抑制:公権力すべて
(ウ)禁止の態様 検閲禁止:絶対禁止(一切の例外は認められない)、事前抑制:相対禁止(例外的に,事前抑制が許される場合がある)
*判例における表現規制の態様(強さ)と審査基準
①「検閲」 ⇒「絶対」禁止(税関検査事件)
②「事前抑制そのもの」(出版差止め等)⇒「厳格かつ明確な要件」の下でのみ許される(北方ジャーナル事件)
③「事前抑制たる側面」はあるが「事前抑制そのものではない」(税関検査など)
⇒「公共の福祉に合致」し「やむを得ない」規制か(税関検査事件)
④「事前抑制そのものではない」(教科書検定など)
⇒「公共の福祉のため必要かつ相当」な規制かを「比較考量」
して判断(家永訴訟)
⇒判例は,上記③・④の場合にについて,特に厳格な審査は行っていないように読める。これに対し,学説では,税関検査や教科書検定は,事前抑制そのものではないとしても事前抑制的な側面がある以上は,厳格な基準で審査すべきだと主張する傾向にある。
4.明確性の理論
(1)判例
・徳島市公安条例事件(最判昭和 50・9・10,百選 83 事件)
・広島市暴走族条例事件(最判平成 19・9・18,百選 84 事件)
・税関検査事件(百選 69 事件)
・岐阜県青少年保護育成条例事件(百選 50 事件)
(2)学説
・定義:明確性の理論とは,精神的自由を規制する立法は明確でなければならないという考え。
・根拠:①国民の自由に対し,刑罰の脅し(威嚇)をもって規制する法律(刑罰法規)は,明確でなければならない(罪刑法定主義。憲法 31 条:犯罪の告知・行政の恣意の禁止)。(手続的要請)。
②特に表現の自由を規制する刑罰法規が漠然不明確な場合,表現の自由(憲法 21 条 1 項)に対
して萎縮的効果(本来合憲的に行なうことのできる表現行為をも差し控えさせてしまう効果)を及ぼす(実体的要請)。
・類型:①「漠然性のゆえに無効」⇒法律の文言自体が不明確である場合
例:「風俗を害する図書」(税関検査事件),「交通秩序を維持」(徳島市公安条例事件),「有害図書」
(岐阜県青少年保護育成条例事件)など
②「過度の広汎性のゆえに無効」⇒文言自体は明確でも,規制の範囲があまりにも広く,
違憲的に適用される可能性がある場合
例:暴走族による集会を規制した条例の文言が,暴走族の集会以外の集会も規制の対象に含まれるように解釈できるような文言になっていたため,憲法で保障された一般国民の集会の自由(21 条 1 項)を侵害する可能性がある場合(広島市暴走族条例事件)
①の「漠然性のゆえに無効」の学説上の説明は,“合理的な限定解釈によって法文の漠然不明確性が除去されない限り,仮にその法規の合憲的適用の範囲内にかると考えられる行為が争われるケースでも,原則として法規それ自体が違憲無効(文面上無効)となる,”というものである。
②の「過度の広範性のゆえに無効」の学説上の説明は,“法文はいちおう明確でも,規制の範囲があまりにも広汎で違憲的に適用される可能性のある法令も,その存在自体が表現の自由に重大な脅威を与える点で,不明確な法規の場合と異ならない”というものである。以上,芦部・前掲書を参照。
・帰結:①法令が不明確・過度に広汎な場合には,たとえその法令に違反したとして起訴された被告人が,その法令が禁止する典型的な行為を行った場合でも,法令自体が違憲・無効となる(被告人は無罪)。
②たとえば,ある法令で,デモ行進の際に「交通秩序を維持」しなかった者には刑罰を科する,という文言が使われていると,どこまでの行為が取り締まりの対象になるのかが分からず,一般国民のデモ行進の自由(表現の自由)を侵害するおそれがある。しかし少なくとも,たとえば蛇後進・道路いっぱいを占拠して歩くこと・道路での座り込み,など
が禁止されるであろうことは,「交通秩序を維持」というこの文言から読みとることもできる。そして実際,デモ行進の際に蛇後進をして起訴された被告人がいたとする。その被告人自身にとっては,その法令は不明確なものとはいえず,必ずしも被告人自身のデモ行進の自由(表現の自由。憲法 21 条 1 項)を不当に侵害する違憲のものとはいえない。しかしその被告人は,裁判で“法令が不明確であり,一般国民のデモ行進の自由(表現の自由)に対し萎縮的効果があるため,この法令全体が違憲・無効(文面上違憲)であり,自分は無罪だ,と主張することができる。
③もっとも,一見すると不明確・過度に広汎なように読める文言も,一般国民の表現の自
由を侵害しないようなかたちで,狭い意味で解釈すること(合憲限定解釈)が可能であ
れば,法令自体は違憲・無効にはならない。
④たとえば,「交通秩序を維持」とは“「蛇後進・道路の占拠・座り込みデモ」などを禁止する意味であり,それ以外のデモ行進には適用されない”と解釈できる場合には,法令
は不明確・過度に広範とはいえないため,違憲・無効にはならない。
⑤ただし,このような裁判所による合憲限定解釈は,場合によっては法文の読み替え,新たに法律を作り直す行為になる恐れもあるため,裁判所が自由に行ってよいものではなく,そこには限界もある(この合憲限定解釈の限界は,税関検査事件判決が示している)すなわち,税関検査事件判決は,「表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許される」要件として,「その解釈により,規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され,かつ,合憲的に規制しうるもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず,また,一般国民の理解にお
いて,具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から
読み取ることができるものでなければならない」と述べている。この点については,芦部・前掲書 214 頁。また,
横大道聡編著『憲法判例の射程』(弘文堂,第 2 版,2020 年)358 頁〔吉川智志〕,371 頁〔柴田憲司〕も参照のこと。。
*判例の立場の確認
①判例は必ずしも「漠然性」と「過度の広汎性」とを明確に区別していない(徳島市公安条例事件,税関検査事件,岐阜県青少年保護育成条例事件など。また,表現の自由の事件ではないが,「淫行」の禁止という文言の明確性・過度広汎性について,憲法
31 条の問題として検討した,福岡県青少年保護育成条例事件:百選 108 事件を参照のこと)。他方,広島市暴走族条例事件は,問題となった条例を,主として「過度の広汎性」の問題としてとられているように見える。
②明確性の要請の根拠条文について,かつて判例は主に憲法 31 条の罪刑法定主義の問題として論じたが(徳島市公安条例事件),後に憲法 21 条 1 項(表現の自由)も併せて扱っている(税関検査事件)。さらに,これら以外の場面でも,個人の自由を制限する時には明確な法律の根拠が必要だという「法原則」
が一般的に存在し,その旨が特に憲法で明文化されている場合(31 条のほか税金に関する 84 条,財産権に関する
29 条など)にはその明確性が厳格に要求される,という思考を判例は示している(旭川市国民健康保険条例事件。最大判平成 18・3・1,百選 196 事件)。
③なお,今のところ,“法令が不明確・過度に広汎であるため違憲・無効だ”と判断した最高裁判例はない。判例は基本的に,“そもそも不明確ではない”とか,“たしかに法令には不明確な部分も
あるが,通常の判断能力を有する一般人の理解によれば,問題となった被告人の行為がその法令
で禁止されていることは読み取れる”とか,あるいは“合憲限定解釈をすれば不明確とはいえない”というかたちで処理している。
5.「明白かつ現在の危険」の基準
・学説:ある表現行為を規制することができるのは,次の要件を満たした場合である。
①当該表現行為が近い将来,ある実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白であること
②その実質的害悪が極めて重大であり,その害悪の発生が時間的に切迫していること
③当該規制手段が上記害悪を避けるのに必要不可欠であること
・適用場面:学説では,一定の表現内容を規制する立法のような表現内容規制,たとえば政府に反対するための暴動をあおる表現(煽動)を処罰するような法律の合憲性を判断する際に,
この基準が有用だといわれる。
*関連判例
(1)違法行為の教唆・煽動(判例は「明白かつ現在の危険の基準」を明示的には使っていない)
・判例:①犯罪の煽動と表現の自由(最大判昭和 24・5・8,百選 48 事件)
②破壊活動防止法上の「せん動」剤と表現の自由(最判平成 2・9・28,百選 49 事件)
・分析:いずれも,政府を批判する暴動をあおる行為を処罰する法律について,“表現の自由も絶対無制約ではなく,「公共の福祉」のための制約があり,犯罪をあおる表現行為を法律で取り締まっても憲法違反ではない”という簡単な理由づけで合憲と判断。
(2)その他
・判例:③戸別訪問の禁止(最判昭和 42・11・21)⇒(「明白かつ現在の危険の基準」に消極的)
④泉佐野市民会館事件⇒(「明白かつ現在の危険の基準」に親和的)
・分析:(a)③は,選挙運動の際に戸別訪問を禁止する規定は,選挙の公正に対する「害悪の生ずる明白にして現在の危険があると認められるもののみを禁止しているわけではない」と述べた。
(b)他方,④は,集会のための市民会館の利用申請に対し,市長が不許可の処分を出すべきことを定める,泉佐野市民会館条例 7 条 3 号のいう「公の秩序を乱すおそれがある場合」に
あたるといえるためには,集会を許すことで,他者の安全等に「明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要である」と述べた。
6.「より制限的でない他の選びうる手段(LRA)」の基準⇒「必要性」の審査に類似
・学説:これは,立法目的(法令が規制をすることによって達成しようとしている目的・保護法益)の達成にとって必要最小限度の規制手段を要求する基準である。すなわち,表現の自由を規制している法令につき,
同じ程度に立法目的を達成できる,規制の程度のより少ない手段(less restrictive alternatives)
が存在するかどうかを具体的・実質的に審査し,それがありうると判断される場合には,問題となった規制立法を違憲とする基準である。
・適用場面:学説では,表現の時・所・方法の規制のような表現内容中立規制の合憲性を検討する場合に有用といわれる。たとえば張り紙を電柱に貼付することを禁止する条例の合憲性等。
*関連判例:ビラの貼付・配布,立て看板の設置,街頭演説等
(1)社会的利益・公益(美観風致の維持,公衆に対する危害防止)との衝突
・判例:⑤屋外広告物条例と表現の自由(最判昭和 43・12・18,百選 55 事件)
⑥立看板と表現の自由(最判昭和 62・3・3,百選 56 事件)
・分析:(a)⑤広告ビラを電柱に貼ること,⑥立看板を街路樹にくくりつけること,を禁止する条例が,表現の自由の侵害になるかどうかが争われた。最高裁は,⑤・⑥のいずれについて
も,「都市の美観風致」・「公衆に対する危害防止」という「公共の福祉」を維持するための「必要かつ合理的な制限」であるという簡単な理由づけで合憲と判断。判例はいずれについても,「必要性」(LRA)を必ずしも踏み込んで審査していない(より制限的でない手段で規制目的が実効的に達成できるかが不明なため,その点の判断を立法者に委ねて,あるいはほかに手段はないと判断して,
合憲と判示していると再構成することも可能)。
(b)なお,⑥の事件で,伊藤正己裁判官の補足意見は,一方で「パブリックフォーラム」論について言及し,表現の自由への配慮を示したが,他方で問題になっている立て看板の設置禁止の法令は「表現内容中立規制」であるため,厳格な基準は不要だとしつつも,この規定を具体的事件に適用することによって得られる利益
と,当事者に生じる不利益とを比較考量した場合,この法令の適用が違憲になる可能性があるという。この立て看板を禁止する条例の規定自体が合憲か否かという問題(法令審査)
よりも,条例・法令の具体的な事件への適用が,その当事者の憲法上の権利を侵害し違
憲になるかという問題(適用・処分審査)に目を向けている。
(2)私益(他者の財産権(29 条),プライバシー(13 条)等)との衝突
・判例:⑦ビラ貼りと表現の自由(最大判昭和 45・6・17,百選 A7 事件)
⑧駅構内でのビラ配布と表現の自由(最判昭和 59・12・18,百選 57 事件)
⑨立川反戦ビラ事件(最判平成 20・4・11,百選 58 事件)
・分析:(a)⑦他人の家屋にビラを張る行為を禁止する軽犯罪法 1 条 33 号,⑧鉄道会社の構内で無断でビラを配布する行為等を禁止する鉄道営業法 35 条,⑨防衛庁の宿舎に反戦ビラ配布の目的で立ち入りビラをポストに投函する行為を住居侵入罪(刑法 130 条)として処罰す
ることが,それぞれ表現の自由の侵害になるが争われた。最高裁はいずれの規制についても,他人の財産権という「公共の福祉」を守るための「必要かつ合理的」な制限であり合憲と判断。上記(1)の判例と同様,やはり必要性(LRA)を踏み込んで審査しておらず,学説とは異なる部分がある。
(b)その際,判例は,「表現そのもの」と,「表現をするための手段」の区別を前提に,これらの事件では,その「手段」を制限しているにすぎないという思考を示している。この区別は,新潟県公安条例事件判決(最大判昭和 29・11・24,百選 82 事件)以来,最高裁によって伝統的に引き継がれている思考だとみることもできる。これは,学説上の内容規制・内容中立規制の区別に,そのまま対応しているわけではないことに注意(以下の*注意点②)。
(c)なお,⑥・⑧事件で,伊藤正己裁判官の補足意見が示した「パブリックフォーラム論」
が注目されている。ちなみに,⑧事件での伊藤裁判官のパブリックフォーラム論は,㋐国・自治体の施設だけでなく私人(京王)の施設も含めていること,㋑公共施設の利用請求権が憲法で保障されるかという問題よりも,保障されることを前提に,利益衡量の際に表現の自由に有利に作用する要素として位置づけ
ている,という点で,学説・通説とは異なっている(百選 57・58 事件の解説も参照)。
*注意点① 表現内容規制⇒厳格な基準,表現内容中立規制⇒中間的な基準(LRA の基準),という機械的な区別に対しては,学説上有力な批判もあることに注意くわしくは,市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社,2003 年)75 頁以下,同『司法審査の理論と現実』(日本評論社,2020 年),橋本基弘『表現の自由』(中央大学出版部,2014 年)169 頁以下などを参照。
。
⇒表現活動へのダメージという観点から見れば,内容中立規制は内容規制よりも小さいとはいえないこともある。たとえば,素朴に考えて,「他人の名誉を傷つけるビラのみを電柱に貼ってはならない」という規制(内容規制)と,「すべてのビラを電柱に貼ってはならない」という規制(内容中立規制)とでは,後者のほうが,表現物の流通量を妨げる程度は大きい。
⇒また,内容中立規制という外形を借りて,実質的には内容規制が行われることもあり得る。上述の立川反戦ビラ事件で問題となった住居侵入罪(刑法 130 条)は,政治ビラ配布の目的でも商業チラシ配布の目的でも,他人の家に立ち入った者を処罰するという意味では,内容中立規制である。しかし,もしこの事
件で,被告人が自衛隊に賛成するビラを配布していたとすれば,そもそも起訴されなかった可能性もある。そういう意味でこの事件は,特定の表現:自衛隊批判を狙い撃ちにした規制だという側面もある。
*注意点② 「表現内容規制」・「表現内容中立規制」という学説上の用語や議論枠組みに,判例は必ずしも依拠していないことにも注意
⇒表現内容規制・表現内容中立規制という区分論は,学説が提唱しているものであり,法令用語ではなく,判例がこうした用語を用いることはない。また,これらの用語は,学説上の用語であることもあり,論者(学者)によってその定義が著しく異なっている部分もある。
⇒そのため,この言葉を出すだけでは,実は読み手に共通理解があることを前提にできない部分がある。こうした言葉の定義をきちんとしないまま,“この判例の事案は内容規制と
内容中立規制のどちらに分類されるのか”という言葉だけを出して論じても,ほとんど意味のない作業になる。また,たとえばある事例問題などで,その事例に関連する判例を挙げることなく,また判例に対する補充や批判という文脈なしに,いきなり“この規制は内容規制だから厳格な基準が必要だ”という論述をしても,実は何も語っていないに等しい。
さらには読み手には,“この人は判例を知らない”と読まれて(低評価の対象になって)も致し方ない。また,内容規制とは何かについて,書き手とは別の見解に立っている読み手には,
“内容規制とはこういうものでない”と思われてしまう恐れもあり,そう思われたらそれでおしまいである(圧倒的多数の書き手が内容中立規制とは何かについて誤解しているのが実情のように見受けられる)。
⇒こうした諸点にかんがみ,あえて私見をいえば,そもそもこうした内容規制・内容中立規制という学説上
の言葉を出すことが混乱の原因になるため,こうした用語法は避けるべきではないかと考えている。他方で,それでは判例のみに依拠すればそれで十分か,といわれると,上記の通り,判例は,学説上の表現内容規制・内容中立規制という区分論には明示的に依拠せず,他方で「表現そのもの」と「手段」という区別自体は示しているが,それぞれの内容について,必ずしも詳細・明瞭な説明・理由づけを語っておらず,
これを引き写すだけでも,やはり中身のある議論にはならない部分もある。そこで,判例法理を(批判的に)補充するという文脈で,次の*若干の応用で示しているような形で,学説上の内容規制・内容中立規制という用語ではなく,この区分論の背後にある基本的な発想を生かしながら,具体的にどのくらい表現の自由へのダメージがあるのかを,個別的・具体的に考察する,という方法が有用かと思われる。
*若干の応用―内容規制と内容中立規制の区別論と違憲審査基準
それでは,具体的にどのように考えればよいのか。そもそも学説において,表現内容規制の合憲性が,表現内容中立規制の合憲性よりも厳しい基準で判断されなければならない理由は,通説的見解によると,次の三点にある。すなわち,内容規制は,①思想の自由市場をゆがめる,②「誤った思想の抑止」という許されない動機に基づく規制である,③「伝達効果」(メッセージの内容が受け手に起こす反応)による規制である。そうすると,逆に内容中立規制であっても,これら①~③の趣旨があてはまると言えるような場合に
は,やはり厳格な審査を行うべきだということになる。
たとえば,「駅前でポスターを貼ってはならない」という(内容中立)規制は,①もし,その駅前以外の他の場所でポスターを貼ることができる場合,つまり代替手段・別のチャンネルを通じて同じ表現内容が自由市場に参加できる場合には,思想の自由市場がゆがめられているわけではないため,裁判所がその合憲性を厳しく審査する必要はないともいえる。しかし他方,もし,その地域には,公営の掲示場のようなポスタ
ーを張れる場所が全く存在しないという状況であれば,表現の自由へのダメージが大きいともいえるため,
厳格な審査が必要だと考えることもできる。
ちなみに,上述の立川反戦ビラ事件は,②許されない動機(自衛隊に反対する思想だけを国が取り締まる)が背後にあることが推測できる事案であり,緩やかな審査を行うべきではないと主張することもできよう
(ただし,どういう動機があるのかを認定することは,実際上は必ずしも容易ではないが)。
また,③は,たとえば「煽動」の結果,犯罪を行う者が出たとしても,それは煽られて犯罪行為に及んだ者の側の責任の問題であって,煽った表現者のほうを規制するのは筋が違い,表現行為の規制は極めて例外的な場合(表現行為によって犯罪が発生する「明白かつ現在の危険」が生じるような場合)に限られる,という話である。
いずれにしても,内容規制か内容中立規制かで,単純に機械的に基準の厳しさを振り分けるのではなく,
仮にこの二分論を用いる場合でも,その言葉を挙げるだけでなく(それでは何も伝わらない。上記*注意点
②),必ずその理由づけ(上記①~③)を挙げ,問題となった規制が表現の自由にどれだけ大きなダメージを与えているのかという点を,個別的・具体的に論じることが重要であるこれにつき,宍戸常寿『憲法 解釈論の応用と展開』(日本評論社,第 2 版,2014 年)135 頁以下を参照のこと。。
7.「合理的関連性」の基準⇒「合理性」の審査に類似
・学説:①表現の自由の合憲性を審査する際の最も緩やかな基準は,「合理的関連性」のテストである。
これは,規制目的(公共の福祉)と規制手段との間に観念的・抽象的な関連性があれば(=目的と手段が無関係でなければ)合憲である,という極めて緩やかな基準である。
②最高裁は,公務員の政治的表現行為を規制する法律の合憲性を,この基準を使って審査し(猿払事件:最大判昭和 46・11・6。百選 12 事件),その後,この基準は,多くの表現の自由の判例で用いられているといわれる。
③また,上記6.の*関連判例(1)(2)で示された,「必要かつ合理的」という最高裁が示した基準も,内容的には,この合理的関連性の基準とほぼ変わらない緩やかな基準だと,学説では評価されており(判例は「必要性」という語は用いているものの,より制限的でない他の手段(LRA)があるかどうかを
踏み込んで審査していないため),学説によって厳しく批判されている。
*注意点―判例と学説における「合理(的関連)性」・「必要性(LRA)」の審査の位置づけの相違
⇒判例は,ある国の行為が憲法上の権利を制約する場合に,それが憲法上許されるかどうかを判断する際,「公共の福祉に合致する目的のため必要かつ合理的(+相当)な規制か」という基準一本で審査する。つまり判例は,①必要性(LRA。ほか
の穏当な手段で目的は十分に達成できるか)と,②合理性(合理的関連性。目的にとって意味のある手段を採用しているか)の両方(ないし,あわせて③相当性(得られる利益と失われる利益のバランス))を,すべての事件で審査する。そして事件の性質によって,その①必要性や②合理性(③相当性)を,踏み込んで審査したり,緩やかに審査したりする。三段階審査の母国のドイツ型の比例原則に近いやり方である。
⇒これに対し,アメリカ型の二重の基準論をベースにする学説は,緩やかな基準を採用するときは②合理性(合理的関連性)のみを審査し,もう少し踏み込んで審査するときには,①必要性(LRA)
まで審査する,という形で,①と②を選択的・択一的にとらえている。判例と学説で,立論の仕方が異なる部分なので,十分に注意されたい特に大学の模擬試験等をやると非常に多く目にする,学生の間でなぜか流通している「模範答案」(自称)は,基本的に,
おそらく特に司法試験受験生などの間で,旧司法試験の時代のアメリカ型・学説型の論証作法の影響が残ってい
るためか,判例のやり方は無視し,他方でドイツ型の三段階審査(比例原則)でもなく,上記のアメリカ型の二重の基準論的なやり方になっているものが多いように見受けられる。それはそれで一つの決断としてはありうる
が,その際に判例を明示的に挙げて補充・批判する等の作業なく,いきなりこうした学説上の基準に依拠すると,
「この人は判例を知らない」と評価されて加点されないことがあることには注意(定期試験でも国家試験でも)。
。
⇒ちなみに上記の「猿払基準」は,目的の正当性,手段の合理的関連性,手段の相当性を審査し,
必要性に明示的に言及しない,という枠組みである。これは,他の多くの判例法理とは異なった基準であり,ドイツ型の学説にもアメリカ型の学説にも見られない特異な審査方法である。
8.補論―「公共の福祉」に関する判例の展開と学説史
・視点:①憲法は,国家の組織・作用を定める基本法だといわれている。すなわち,日本国憲法は,誰が国家権力を担当するのかという,国家機関の仕組みを定め(国会・内閣・裁判所・地方公共団体(・天皇)等),それらの国家機関が,具体的にどのような権限を持っているのか(立法・司法・行政・地方自治権(・国事行為)等。憲法第 1 章,第 4 章以下。積極的授権規範),また,どのような組織・作用を持ってはいけないのか(「軍」を禁止する憲法第 2 章や,「人権」の侵害禁止を定める第 3 章
等々。消極的授権規範)を定めるものである。
②特に,日本国憲法は,国民の基本的人権というものを,「侵すことのできない永久の権利」(11 条,
97 条)だと述べている。つまり,国会・内閣・裁判所を含めた,すべての国家権力は,その権力を行使するにあたり,国民の基本的人権を侵害しないようにしなければならない。
③しかし他方,日本国憲法は,人権の「濫用」を禁止し,「公共の福祉」に反しない限りで保障されるとも定めている(憲法 12 条後段,憲法 13 条後段。さらに,職業の自由・財産権については,もう
一度重ねて,人権の保障が「公共の福祉」の範囲内だということが書かれている。憲法 22 条 1 項,
29 条 2 項)。これはつまり,人権の行使が「公共の福祉」に反する場合には,その人権を国が制限することができるという考えが示されているともいえる。
④たとえば,どんなに表現の自由(憲法 21 条 1 項)が重要だといっても,たしかにこれを無制限のものだと考えることはできない。表現活動によって重大な害悪がもたらされることもある(大声での夜中の演説,他人の家に政治ビラを張る,など)。このような場合,たとえば国会や地方自治体は,
法律や条例で,こうした表現活動を規制する条文を定めたり,その法律や条例に違反した人を行政・
司法が取り締まったりすることは許されると考えられている。
⑤このように,保障する自由・権利(=人権)には―若干の例外(検閲(21 条 2 項),拷問(36 条))
を除き―常に限界があると考えられている。「無制限の権利」・「絶対の権利」というものはなく,
人権の制約が必要な場合もあると考えられている。それでは具体的にどのような場合に,人権の行使は「公共の福祉」に反するとして,制約を受けるのか。憲法自体は,それ以上具体的なことを述
べていないため,この点をどう考えるべきかが,重大な問題として,判例・学説で今日に至るまで論争の対象となっている。
(1)戦後初期判例―観念的・抽象的な「公共の福祉」論
・例:犯罪の煽動と表現の自由(最大判昭和 24・5・18,百選 48 事件),
加持祈祷事件(最大判昭和 38・5・15,百選 38 事件),等。
⇒「公共の福祉」の内容を特に示さず,“この事件では「公共の福祉」に反したことを国民が行った以上,これを取り締まっても憲法には違反しない”と,ごく簡単に結論づけるものが多かった
⇒さらに言うと,この時代の判例は,①問題となった個人の行為がそもそも憲法で保障されていない,という話をしているのか,②それとも,問題となった個人の行為は憲法で保障されているが,「公共の福祉」
に反するため,その憲法で保障された行為を制限しても憲法違反ではない,という話をしているのかが,
明確に区別されていないのも特徴的である。①は,最近流行りの「三段階審査」に照らせば「保護領域」の話であり,②は,「正当化」の話である。この時代の判例は,「公共の福祉」に反する行為は,
そもそも憲法で保障されていない,というふうに読めるものが多くあり,①保護領域の話と③正当化の話
が一体的に論じられる傾向にある。
(2)戦後初期学説
ア 一元的外在的制約説
・結論:12 条・13 条の「公共の福祉」は,人権の外にあって,それを制約することのできる一般的な原理。22
条 29 条の「公共の福祉」には,特別な意味はない。
・批判:この説は,「公共の福祉」の内容として「公益」・「公共の安寧秩序」というような抽象的な考えしか示しておらず,そのため,もし,その「公益」等の内容を国が法律レベルで決めてよいということにな
ると,法律による人権制限が容易に肯定される恐れがあり,明治憲法の時代の「法律の留保」がつい
た人権保障(人権が「法律の範囲内」で保障されると書かれていた)と変わらなくなる恐れがある。
イ 内在・外在二元制約説
・結論:①12 条・13 条の「公共の福祉」には,法的な意味はなく(倫理的・訓示的規定),人権制約の根拠にはならない。憲法上の権利は,権利が社会的なものであること(他人の権利等と衝突する場合もあること)に内在する制限(憲法上のそれぞれの権利自体が想定している制限)を受けるにとどまるのが原則である(人権行使が可能な範囲をあらかじめ事前に法律で決めておくことは許されない)。
②ただし,経済的自由(職業の自由・財産権)は,国による政策的・積極的規制(典型例は,経済的弱者の生存権・社会権(憲法 25 条)を保護するために,経済的な強者の職業活動を制限すること)が
必要な権利であるため,憲法 22 条 1 項・29 条 2 項で改めて「公共の福祉」が,特別に書かれていると考えられる。そのため,憲法 22 条 1 項,29 条 2 項の「公共の福祉」は,経済的自由を政策的・積極的目的で制限する根拠になる(大規模なスーパーマーケットの進出を制限する営業許可制・適正配
置規制などのような事前規制,すなわち,人権(経済的自由)の行使をあらかじめ法律レベルで制限しておくことも許される)。
(③また,25 条の生存権のような社会権も,表現の自由や信教の自由のような「自由権」とは異なり,
国による介入を排除する権利(不作為請求権)ではなく,国が法律を制定する等して,憲法上の権利の内容を具体化する必要のある権利(作為請求権)であるため,国の法律レベルでの事前の規律
=外在的制約が許される。)
・批判:(①自由権と社会権は必ずしも明確に区別されない場合もあるにもかかわらず,その制限を,一方は内在,他方は外在と割り切るのは妥当でない。)
②「公共の福祉」の意味を,政策的・積極的な規制という意味に限定することは妥当でない。
③13 条の法的な意味を否定してしまうと,「新しい人権」の法的根拠が失われる(たとえばプライバシ
ーなど,憲法が制定された時点のあとに重要だと考えられるようになった権利に憲法上の保障を与える根拠として,憲法 13 条が通常用いられる。)。
ウ 一元的内在的制約説
・結論:①公共の福祉とは,人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理である。
②この意味での公共の福祉は憲法の規定に関わらず,すべての人権に論理必然的に内在している。
③自由権を各人に公平に保障するための制限(たとえば表現の自由が,他者のプライバシーという自
由権とぶつかった場合の,表現の自由への制限)は,必要最小限の制限が許される(自由国家的公共の福祉)。
④社会権を実質的に保障するために自由権を制限する場合(たとえば上記のように,経済的弱者の生存権(25 条)を保障するために,経済的強者の職業の自由(22 条 1 項)を制限する場合)には,必要な限度の規制が認められる(社会国家的公共の福祉)。
・批判:①特に③④に関し,「必要最小限度」とか「必要な限度」という抽象的な基準で,人権の限界を判断すること,しかもそれを判例の集積に待つのは妥当ではなく,あらかじめ明確な基準を,それぞれの
権利の性質に応じて設定しておく必要があるのではないか。
②もし,「人権相互の衝突」という一元的内在的制約説の主張を,文字どおりに捉えるならば,人権を
制約できる公共の福祉とは「他者の権利」だけであり,「社会的利益」は公共の福祉ではない,ということになりうる。しかし,少なくとも最高裁判所は,公共の福祉の内容を「他者の権利」には限定していない。また,最近の学説では,公共の福祉の内容として,他者の権利だけでなく,さまざまな社会的利益も含めて考える見解が有力になりつつある。また,そもそも通説的な見解自身,総
論レベルでは「人権を制約できるのは他人の人権のみ」といいつつ,各論レベルではこの見解を貫いていない(たとえば公務員の政治活動(憲法 21 条)や労働基本権(同 28 条)は,いま法律で厳
しく制限されているが,この制限を正当化する公共の福祉とは何かという点につき,通説的見解は
「憲法が公務員関係の存在と自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること」だとしている。
少なくともこれが「他者の権利」ではないことは明らかである)。「社会的利益」を理由とする人権制限をすべて目的違憲とするのでない限り,一元的内在的制約説は維持できない。
(3)「比較衡量」論の登場
・判例:博多駅事件(最大決昭和 44・11・26,百選 73 事件)などで明示的に採用され,以降の判例でも「比較衡量」は,最高裁の基本的な頭の使い方(思考様式)の一つになっている。
(4)「違憲審査基準」論(二重の基準論)の登場
・視点:比較衡量論では比較の基準が不明確という問題意識からアメリカ型の基準論に注目。
(5)「三段階審査・比例原則」の登場
・視点:日本の法制度・判例に適合する理論を求めるという観点からドイツ型の三段階審査に注目。
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