以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ(第8版)」を指す。
1.性表現
(1)なぜ性表現は規制されるべきなのか――道徳・倫理と法
・視点:①憲法 21 条 1 項は,「言論,出版,その他一切の表現の自由」を保障するとしている。 「一切の」表現行為が保障されるのであれば,そこにはポルノ等の性表現も含まれ, 現代の日本社会においては自由な性表現が許されると考えるべきようにも思われる。
②しかし,刑法 175 条は,性表現は規制されるべきだとする(「わいせつな文書,図画,電磁的記 録に係る記録媒体その他の物を頒布し,又は公然と陳列した者は,2 年以下の懲役又は 250 万円以下の罰金若しくは科料に処し, 又は懲役及び罰金を併科する。 電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も,同様とする。」)。
③それでは,刑法 175 条は表現の自由を侵害し違憲なのか,また仮に合憲だとすれば, なにゆえに性表現は規制されなければならないのか,という問題が生じ得る。
ア 判例:健全な性道徳の維持――「チャタレイ夫人の恋人」事件(最大判昭和 32・3・13,百選 51 事件)
・分析:この事件で最高裁判所は,性表現を規制する根拠を,「性行為の非公然性」という「性道徳」の維持に求めた。そして,これは「必要最小限の道徳」であり,法的規制の対象になるという(さらにこの「道徳」の中身は「社会の多数の人々の集合意識」ではなく,裁判官が認定すべきものである,とした)。
・批判:学説では,この最高裁判決に批判的な論者が多くを占めているこれに関して、百選 51~53 事件の<解説>などを参照。学説状況の概観については,奥平康弘『ジャーナリズムと法』(新世社,1997 年)。詳細については,アメリカの議論状況との比較も含め,加藤隆之『性表現規制の限界』(ミネルヴ ァ書房,2008 年)を参照。。批判論者いわく,
①健全な性道徳というものの内容は不明確である。性表現が世にあふれることにより, 具体的に社会にどのような害悪・弊害が生じているのかは必ずしも明らかになっていない。このような曖昧な根拠に基づいて表現行為を取り締まるべきではない。
②そもそも国家は道徳的・倫理的に中立であるべきであり,法を通じて特定の道徳・ 倫理思想(特に社会多数派の社会通念)をおしつけるのは,個人の自律性を無視したいらぬお節介である。法と道徳・倫理は別物である(政治哲学のリベラリズムという考え方に通じる)これに関連した次のような批判もある。“ある表現の内容が許されるべきものかどうかは,国家権力ではなく市場における市民の判断に委ねられるべきである,という考え(思想の自由市場)が,表現の自由の根底にある。裁判所という国家権力が法を通じてわいせつ物を取り締まるというやり方は,この思想の自由市場 とそぐわない。国家が表現内容の是非を判断して規制するというのは,表現の受け手である市民の自律性を無視したいらぬお節介である。”。
イ 学説:「見たくない人の権利」と「子供の人格権」の保護
・視点:①以上のような批判にもかかわらず,性表現をいっさい規制してはならない,完全に自由化すべきだ,というところまで徹底する論者は,今のところ多数説にはなっていない。
②もっとも,性表現に規制が必要だと主張する論者も,その規制の根拠については議論が分かれる。有力な見解の一つは,上に見た批判を踏まえ,最高裁のように「性道徳の維持」と捉えるのではなく,「見たくない人の権利」と「子供の人格権」の保護(憲法 13 条後段)という二点に求める。
③すなわち,未成年者は人格の発展途上にあり,テレビや漫画などによる低俗なわいせつ表現によって,その人格の発達が妨げられてはならない,という。さらに,いかにポルノ愛好家であっても,自宅の前にわいせつなポスターが貼ってあれば嫌悪感を抱くであろうし,また,出勤や通学の際に,会社や学校の前に猥褻なポスターが貼ってあれば, やはり嫌悪感を抱く人も多いであろうと思われる。成人は,わいせつな表現によって, もはや人格を妨げられることはないが,「見たくないときには見せられない」という権利があると考えられる,というなお,最近においては,ポルノ規制の根拠として,いわゆる「フェミニズム」ないし「性差別」を持ち出す論者もいる。すなわち,ポルノは男性の性的支配を是認・助長し,そういうものとしてそれは「女性の人権」を侵 害するものであり,それ故に性表現は法的に規制されるべきである,という。もっとも,はたして女性は,国が ポルノ規制をして「守ってあげるべき弱い存在」といえるのか,むしろそういう理由で性表現を規制するほうが 性差別を助長するのではないか,という意見もあり,議論状況は必ずしも単純ではない。。
(2)規制されるべき性表現とはいったい何か―「わいせつ」の概念と「比較衡量」
ア 判例
(ア)わいせつの 3 要件―「チャタレイ夫人の恋人」事件 ⇒百選 53 事件
(イ)「全体的考察方法」―「悪徳の榮え」事件(最大判昭和 44・10・15)⇒百選 54 事件
(ウ)わいせつ概念の再構成――「四畳半襖の下張」事件(最判昭和 55・11・28)⇒百選 55 事件
イ 学説
・視点:上で見た学説のように,性表現の規制の根拠を「見たくない人の権利」と「子供の人格権」 に求める場合,これらを侵害しない限りは,性表現を規制することは許されないことになる。つまり,ある表現が「わいせつ」物(刑法 175 条)として規制されるべきものかどう かは,
(ⅰ)性表現の自由(憲法 21 条 1 項)と,
(ⅱ)「見たくない人の権利」・「子供の人格権」(憲法 13 条)
との「比較衡量」によって決まる。どちらが優位するかは,ケース・バイ・ケースである。
・帰結:①何が「わいせつ」物かは,表現物自体において決められるのではなく,状況との関連の なかで決められる。たとえば,本屋で適法に売られている週刊誌のヌードグラビアを切り取って中学校の校門近くに掲示すれば,わいせつ物陳列罪に問われることになりうる。
②上の(ⅱ)の権利を侵害しない限り,内容的にいかに露骨な描写のものであっても,これを規制することはできない。この場合,性表現を規制する理由がないからである(この観点からすると,現在行なわれている成人指定映画の上映に関する規制やアダルト・ビデオに対する規制は厳格すぎる,ということになりうる。見たくない大人や子供に見せないためには,年齢確認等,表現の時・場所・方法を規制すれば十分だからである)。
③(ⅱ)の権利が害された場合には,規制が許される(「わいせつ」かどうかを判断する基準として,性器等の露出の有無を重視しているかのような下級審裁判例もあったが,(ⅱ)の権利が害される場合には,たとえ下着を着用していても規制の対象となる場合がありうることになる)。
(3)ピカソや歌麿のポルノ芸術も規制されるべきなのか――芸術と法
・視点:性表現・ポルノ作品といっても,見るにたえない低俗なものばかりではない。中には 芸術的価値の高いポルノ作品もある(たとえば,ピカソやクリムトのポルノは有名であるが,そのほかにもロダンやミレー,レンブラント,ルーベンスに至るまで,実に多くの画家たちがポルノ芸術を残している。日本においても,歌麿に 代表される種々の浮世絵は,性表現を含むものが多々ある。また,格調高い文藝作品に性表現が含まれていることは,しばしば見られる現象である)。このような芸術作品も,刑法 175 条のいう「わいせつ」として規制の対象になるのか。
・判例:①芸術性とわいせつ性は全く別の問題であり,芸術的側面において優れた作品でも, わいせつ性をもっていると評価され,法的な規制を受けることもありうる(「チャタレイ夫人」事件)。
②もちろん,芸術性・思想性が,性的描写による性的刺激を緩和させ,法的規制の必要性を失わせることはありうる。しかし,その程度までわいせつ性が解消されない限り,芸術作品だからといって直ちに法的規制を免れるということにはならない(「悪徳の榮え」事件)。
*「定義づけ衡量」という考え方について
①かつて性表現は,名誉棄損的表現や,後に扱う犯罪の煽動と並んで,「価値の低い表現」として, 表現の自由(憲法 21 条 1 項)の保護を一切受けないと考えられてきた。もっとも,最近は,性表現 であってもやはり表現の自由の保障は受けるべきだと考えられている。もちろん,表現の自由も絶対無制約ではなく,「公共の福祉」(12 条,13 条)による制約は受ける。性表現を規制する刑法 175 条は,そういう「公共の福祉」を守っているのならば違憲とはいえない。
②問題は,刑法 175 条が守ろうとしている「公共の福祉」(刑法でいえば「保護法益」)とは何なのかという点である。判例は「性道徳の維持」だとしているが,これは表現の自由を制約する理由としてあいまいすぎるという批判が学説では多い。この学説の批判を徹底すると,刑法 175 条は表 現の自由を侵害する違憲の法律だということになる。
③もっとも,そこまで徹底する論者は多くなく,有力な見解の一つは,刑法 175 条は子どもの人格権・見たくない人の権利(憲法 13 条)を守っている限りでは合憲だとする。他方,その意味で,こうした限定をつけていない刑法 175 条は,規制対象が広すぎるため違憲だ,という主張もありうる。あるいは,仮に刑法 175 条の「わいせつ」という文言自体は,こうした子供の人格権や見たくない人の権利を保護する規定なのだと狭い意味で解釈で きる限りで合憲だとしても,子どもの人格権や見たくない人の権利を害していない性表現に対 して刑法 175 条を適用すると,それはその性表現を行った者の表現の自由(憲法 21 条 1 項)を侵害することになる。
④そして,このように,刑法 175 条が規制の対象にしている「わいせつ物」とは,たとえば“子どもの人格権や見たくない人の権利を害する性表現だ”というふうに解釈し,性表現を自由にできる場合(表現の自由の保障を受ける性表現)と,そうでない場合(子ども・見たくない人の権利を傷つけるので規制の対象になる性表現)を「あらかじめ」区別しようとする考え方を,「定義づけ衡量」ということもあ る。何が取り締まりの対象となる「わいせつ物」(刑法 175 条)かを定義する(=刑法でいえば「構成要件該当性」を判断する)際に,表現の自由(憲法 21 条)と子どもの人格権・見たくない人の権利(同 13 条)との比較衡量を「あらかじめ」行い,「わいせつ」の範囲を限定しておくという考えである。あるいは“「芸術表現」は「わいせつ物」(刑法 175 条)ではない”というかたちで,表現の自由が及ぶ範囲をあらかじめ明確にしておく,という類型化を行うのが定義づけ衡量といわれる。こういう類型化を(狭く)行う結果,本来,取り締まってもよいような性表現も,規制の対象から外れることもありうるという問題もあるが,しかし類型化をした方が,どういう表現が取り締まりの対象になるのかが明確になり,表現の自由への「萎縮効果」(本来許される表現を処罰を恐れて差し控える効果)が少なくなるといわれる。
⑤ちなみに,こうした「限定」・「類型化」の例として,憲法上の保護を受けない「ハードコアポルノ」と,それ以外の表現物とを区別する,という考え方もある(最判昭和 58・3・8 の伊藤正己裁判官の補足意見)。
⑥なお,判例のように,性表現の規制の根拠を「性道徳の維持」に求める場合,「わいせつ」物頒布罪(刑法 175 条)で処罰されるどうかは,個々の事案での表現の自由と性道徳の維持との比較衡量で決まることになろうなお,その際の法律構成として,仮に刑法の枠内で論じるとすれば,①そもそもわいせつにあたるか否かを判断する際に,上記の比較衡量を行うか(構成要件該当性),②あるいは,わいせつにはあたるとしても,憲法上の表現の自由の行使として正当化されると構成するか(違法性阻却事由),多様な構成がありうる。。この衡量の際,悪徳の栄え事件判決によれば, 「文書全体」から考えて芸術的価値がある場合には「わいせつ」にあたらないと判断される可能性も示唆されていた。そして実際,最近の事件で最高裁判所は,写真家メイプルソープの写真集(男性器を映した白黒写真が含まれていた)について,芸術的評価が高いこと,問題の性表現が写真集 全体:386 頁のうち 19 頁に過ぎないこと,等を理由に,輸入禁止の対象となる「風俗を害すべ き書籍,図画」(関税定率法 21 条 3 項)にはあたらないと判断している。第二次メイプルソープ事件(最 判平成 20・2・19,百選 53 事件の解説)。
2.青少年の保護――「有害図書」の販売規制
・視点:1970 年代,いわゆる「悪書」追放運動というものが,PTAを中心としてさかんに行なわれ,これが全国に広がった。この運動は,暴力表現や性表現などを含む漫画や雑誌など の「有害」図書から子供を守ろうとするものである。この運動を受け,各自治体は,こうした図書を青少年の目に触れさせないように販売規制をするなどして対応した(青少年保護育成条例の制定など)。これに対し,実際に規制を受けた出版社などが,表現の自由の侵害を裁判で主張するという事件がいくつか起こることとなった。なお,この規制の対象となる「有害図書」は,青少年の保護にとってマイナスとなる表現物を意味し,上で見た, 刑法 175 条が禁止する「わいせつ」文書よりも広い概念である(すなわち,「わいせつ」に至らない性表現も規制の対象となりうるし,暴力表現や残忍な表現なども「有害図書」に含まれ,規制の対象となる)。
・判例:岐阜県青少年保護育成条例事件(最判平成元・9・19) ⇒百選 56 事件
・分析:①この事件で最高裁は,「有害図書」が性的逸脱行為などにつながることは「社会共通の認識」であるとした。しかし学説では,両者の関係は証明されておらず,表現の自由を規制する理由がはっきりしない(有害図書規制という手段と青少年の保護という目的との間に合理的関連性がない),と主張する見解が有力である。
②さらに他方で,インターネットで有害情報が多く入手できる現状からすると,未成年保護という規制の目的にとって,自動販売機での販売規制という手段はむしろ不十分(過小包摂)だという指摘もある(①②の指摘は,特に表現の自由への制約は厳格に審査すべきだという立場からなされる)。
③また,この判決は,青少年というものは判断能力に欠けるところがあり,自己決定能力 が未熟であるとみなしているようにも見える。学説では,このような「パターナリズム」 (=父親が,子供のためという名目で,子供の同意を取りつけることなく,子供の運命・自由を左右すること。それと同じようなかたちで,国家権力が本人すべてを代位して,本人に対する配慮を行なう仕組み。つまり「本人を保護する」という目的で,本人の権利を制限すること)に対して批判的な論者が多い。すなわち,「児童の権利条約」にも示されている通り,近年では,こうした青少年の一般的未熟性を前提とせず,むしろ子供の自己決定能力の可能性を前提としたうえで,それを育成・増進させるべきだ,という考えかたが有力になりつつある。
④この判決は,事件自体は地味であり,また,判決文そのものは結論しか語っていないため,この判決文の表面を読むだけでは,あまり有益な示唆は得られない。そのため,この判決そのものを覚えてもあまり意味はないが,実はこの事件には,憲法上の人権問題 を考える上での大事な論点が,ほぼ網羅されているといってよいほど,重要な憲法問題が多く伏在している点にも注目のこと。
*類似の事件での事案の区別の可能性――DVD の自販機と監視カメラ
DVD の自動販売機に監視カメラが設置されており,客が 18 歳以上だと監視員が判断した場合には遠隔操作で販売機に電源を入れ,購入を許すというシステムがある。これは岐阜県の事案とは異なり,対面販売と変わらないため,こうした自動販売機での DVD の販売まで規制の対象に含め,青少年保護育成条例を適用すること表現の自由の侵害なのではないか,という点が問題となった事件がある。しかし最高裁は,このモニター画面では客の正確な年齢は確認できないこと,監視員が人目にさらされていないため販売したいと思うあまり年齢確認を怠る可能性が高いこと,などを理由に合憲判断を示している(最判平成 21・3・9)。
*児童ポルノをめぐる問題
①アメリカでは,年間二十万人の子供が行方不明になっており,そのうちの相当数が児童ポルノ産業の犠牲になっているといわれている。
②児童を被写体とした「児童ポルノ」については,これまで述べてきた一般のポルノとは区別されなければならないといわれている。児童ポルノは,成人映画として上映することは許されず,その製造・販売・インターネットへのアップロードはもちろん,購入・アクセス・所持自体を処罰することも可能だとする見解が有力である(アメリカではそのような規制を設ける州が少なくない)。その理由として,児童ポルノについては,作者・業者の表現の自由,愛好家の「見る権利」よりも,被写体となる児童の人権のほうがはるかに重要(児童ポルノ産業自体を根絶させる必要)という点があげられる。
③日本においても,児童ポルノ処罰法が成立し,この「児童ポルノ」にあたるかどうかは,上で見た「わいせつ」の場合とは異なり,「いたずらに」性欲を刺激させなくても処罰の対象になるとされている(京都地判平成 12・7・17)。なお,2015 年に,児童ポルノの単純所持を処罰する方向で法改正されたが,処罰の対象となるのは,「自己の性的好奇心を満たすための所持」 に限定されているそのため,例えば子どもと水浴びをしている写真を親が持っているというだけでは,通常は処罰の対象にはならないと考えられる。児童ポルノの憲法問題については,概説書として,松井茂記『マス・メディア法入門』(日 本評論社,2013 年)184 頁,同『インターネットの憲法学』(岩波書店,2014 年)156 頁など。
0 件のコメント:
コメントを投稿