">

2021年9月19日日曜日

集会の自由《集団行動 / 表現の自由のまとめ》

 以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。なお、前回の続きという名目で記事を書いているので、番号振り等も前回の続きから始めている。


3.集団行動・集団示威運動(デモ行進など)と公安条例・道路交通法による規制
・視点:①「動く集会」としてのデモ行進などは,各自治体の「公安条例ちなみに,この「公安条例」は,もともとは戦後に日本を占領していた GHQ に対する反対運動を押さえつけるために,GHQ の指導のもとに制定されたという経緯がある。GHQ が占領していた時代というのは,日本国憲法よりも GHQ(マッカーサー)の命令のほうが優位するような時代でもあったわけであり,その意味でも,この公安 条例が憲法の保障する集会の自由を十分に考慮したものかどうかについては,議論の余地もある。百選 82 事件の 解説などを参照。 」や国の「道路交通法」などにより,前回の2.で述べた公共施設の利用の場合と同様に「許可制」が とられており,自治体等の「公安委員会」や「警察署長」などの許可を得なければならない。 
    ②もっとも,前回の2.の公共施設の利用の場合,上述のように,管理権者が自由に不許可にできない場面が多いが,公安条例や道路交通法によるデモ行進の規制(許可制)の場合には,たとえば「社会の安全のため」という抽象的な文言に基づいてなされることが多い。そのため,国・自治体の裁量的判断(=どういうデモ行進が社会の安全を害するのか について公安委員会の側の自由な判断の余地)が働き,集会の自由・デモ行進の自由が過度に制限されるおそれもある。 
    ③そこで学説では,集会・デモ行進を不許可にしうる場面を出来るだけ狭くすべきだという主張がなされてきた。具体的には,次のような主張が有力である。すなわち, 
(ア)許可の目的 ⇒ ・一般公衆の道路・公園の利用を妨げる恐れがある 
          ・集会の重複・競合を避ける 
 という二つの場面に限定(「治安維持」という,何でも含みうる抽象的な目的ないし警察的・消極的目的(国民の自由制限の目的)で不許可にしてはならない。「公の営造物」の管理目的ないし福祉的・積極的目的での管理権行使が,本来の姿)。 
(イ)許可の手段 ⇒・「許可制」は行き過ぎであり「届出制」で足りる 
          ・許可制であっても,許可の条件が明確かつ厳格に限定され,実質的には届出制と変わらないものである必要がある(=“こういう条件が備わっていれば原則として許可しなればならない”という条文のスタイルになっていれば○) 
   *許可制:原則・集会は禁止,例外・許容 
   *届出制:原則・集会は許容,例外・禁止 
    
    ④判例も,一般論としては,この学説の主張を認めている。たとえば新潟県公安条例事件(最大判昭和 2 9・ 11・ 2 4,百選 82 事件 )で最高裁は,次のように述べている。 
(ア)集団行進を許可制で一般的に事前に制限することは許されない。 
(イ)しかし,集団行動の場所や方法について許可制をとることは,合理的で明確な基準が法令の中で設定されていれば,憲法違反(集会の自由の侵害)ではない。この場合には,表現 の一般的禁止ではなく,時・場所が制限されるにすぎないからである。 
 (ウ)ある集団行進を不許可にできるのは,その集会が公共の安全に対して明らかな差し迫った危険を及ぼすことが予見される場合だ,という許可条件を定めることも,集会の自由を不当に制約しない。 
    ⑤もっとも,以下に示すその後の判例は,必ずしもこの(ア)~(ウ)の基準を厳しく適用せず,許可制を定める公安条例や道路交通法を合憲と判断し,また,具体的な不許可処分についても合憲・適法判断を重ねてきている。そのため,学説による批判が非常に多い 
    ⑥なお,前回扱った泉佐野市民会館事件で最高裁は,“公道での集団行動”ではなく, “「公の施設」(地方自治法 24 4 条)の利用”という事案ではあるが,上記(ウ)に類似す る「明白かつ現在の危険」という観点を取り込んでおり,この点は評価を得ている。
・判例:①東京都公安条例事件(最大判昭和 3 5・ 7・ 2 0,百選 A8 事 件 ) 
     ⇒最高裁は,①許可の目的について,集団行動は,いわゆる「群集心理」によって「暴徒」になる恐れもあるので(集団暴徒化論),「法と秩序を維持」するために集団行動に対し事前の規制 (≒許可制)を加えることも許される,②また許可の手段について,問題となった条例は,「場所のいかんを問わず」・「道路その他の公共の場所で」集団行動をする際には許可が必要という定めになっているが,これでも許可基準が不明確とはいえず,また,秩序維持に対する危害が 「明らか」だといえない限り許可しなければならないという規定になっていること等に照らすと,実質的には届出制と変わらないと判断した。 
     なお,上記の新潟県公安条例事件では,問題となった公安条例に「許可推定条項」が置かれており,最高裁は,この点にも着目して,実質的に届出制と変わらないという判断を示していた。許可推定条項とは,たとえば集会目的で道路の使用許可を求め,それに対する自治体による許可・不許可の応答が,一定期間内に示されない場合には,許可されたものと推定する, という条文であり,集会の自由に配慮したものといえる。しかし,この東京都公安条例には, こうした許可推定条項は置かれていなかった。それにもかかわらず最高裁は,東京都公安条例事件では,上記の集団暴徒化論を強調しつつ,合憲判断を示している。この判断には学説上の批判も強く,新潟県公安条例事件の判旨を骨抜きにした,実質的な判例変更だという評価されることが多い。 
    ②徳島市公安条例事件(最大判昭和 5 0・ 9・ 1 0,百選 83 事 件 )
    ③道路交通法による集団行動の規制(最判昭和 5 7・ 11・ 1 6,百選 8 5 事件) 
     ⇒道路交通法 77 条 1 項 4 号は,「一般交通に著しい影響を及ぼすような通行の形態若しくは方法による道路を使用する行為又は道路に集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為」に対して は,許可が必要だと定めていた。この規定が集会の自由(憲法 21 条 1 項)を侵害するか否かが問題となった。最高裁は,この許可制について,「交通の妨害のおそれがない」場合等には,道路の 使用を許可しなければならないと定めている道路交通法 77 条 2 項を挙げ(≒許可が原則なので, 実質的には届出制と変わらない),この程度の規制は「表現の自由に対する公共の福祉による必要かつ合理的な制限」という理由で合憲と判断。
4.その他の重要判例―広島市暴走族条例事件(最判平成 1 9・ 9・ 1 8,百選 8 4 事件)
・分析:①集団行動の事案ではなく,公園の集会利用に関する事案であり,また,上記の諸判例 とは異なり,事前の許可性が問題となった事案ではない。しかし,集会目的での公園の利用が,(a)集会の自由に含まれることを前提に,(b)その利用の制約を定める条例の合憲性,特に「過度広範性」が争点となり,結論としては「合憲限定解釈」が施され,条例は合憲とされた。 
    ②(a)について,市の公園という場所の利用権を集会の自由に含めている点は,見方によっては公園が「伝統的パブリック・フォーラム」であることを前提にしているといえなくはないが,(b)それに見合った(=表現・集会の自由の重要性を意識した)厳格な違憲審査が行われているとは,必ずしも言えない部分もある。そのため,判例がパブリッ ク・フォーラム論をどの程度意識しているのかついては異論もありうる
* 判例の射程 
・視点:①上記の通り,集会に対する事前の許可制が,集会の自由への制約として憲法上許されるかについて,非常に厳しいハードル(明白かつ現在の危険があるときのみ不許可にできる)を掲げた新潟県公安条例事例事件判決(百選 8 1 事件 )は,後の東京都公安条例事件(百選 A8 事件 )の「集団暴徒化論」によって,実質的には骨抜きにされている。そして実際,後の判例で,屋外での集会が問題となった事案では,東京都公安条例事件判決がよく引用される。上記の道交法の事件(百 選 8 5 事件 )のほか,幸福追求権の判例である京都府学連事件(百選 16 事件 )などがその例である。 
    ②これに対し,新潟県公安条例事件の論旨(明白かつ現在の危険があるときのみ不許可にできる)は,上記の通り,泉佐野市民会館事件など,屋内の集会に引き継がれていると読むことはできる。 
    ③なお,新潟県公安条例事件判決が示した表現の「場所・時間」の制限ならば,一定範囲で許される,という発想は,ビラ配布の規制などで「表現そのもの」と「手段」を区別する後の判例にも引き継がれている部分がある。
参考:学説(通説) による表現の自由への規制・審査基準の分類(*判例ではないので注意 
(1) 検閲・事前抑制最も厳格な基準(検閲は絶対禁止。事前抑制には「厳格かつ明確」な基準が必要。) 
(2) 漠然不明確・過度に広汎な規制厳格な基準(明確性の理論。)
(3) 表現内容規制 
ア 高い価値の表現(「 自己統治の価値 」 と 結び付くもの 。 政治的表現)の規制 
・例:政府の暴力的転覆を唱道する言論の規制 ⇒厳格な基準(「 明白かつ現在の 危険 」 の基準など ) 
イ 低い価値の表現(「 自己統治の価値 」 とは直接には結び付かないもの)の規制 
・例:①名誉棄損的表現,性表現類別的比較衡量(or「定義づけ衡量」)
   ②営利的言論コ マ ー シ ャ ル)中間的な基準(LRA など )
(4) 表現内容中立規制(原則として)中間的な基準(LRA の 基 準 )
(5)表現の自由と同程度の重要度をもった権利・利益が衝突している場合個別的比較衡量論 
・例:①表現の自由とプライバシー
   ②表現の自由(報道・取材の自由)と公正な裁判
(6)表現の「場」の提供を求める場合 ⇒「パブリック・フォーラム
注意点―表現・集会の自由の違憲審査基準をめぐる判例と学説の関係 
・視点:①表現の自由と,これに対立する利益のどちらが優越するかは,基本的には,
(a)表現の自由の重要度, 
(b)表現の自由に対する規制の強さ, 
((c)その事件で規制を必要だと判断する国の側の裁量(自由な判断の余地 )を尊重する必要性(裁判所にとって審査するのが難しい専門技術的 ・政策的な判断が必要な事件か )), 
に照らしながら,どのくらい厳しい基準を用いて判断するかどうかを決め,そして,その基準に照らして違憲かどうか(法的効果)を判断する。 
    ②そしてその際, 
(a)重要な権利に対する(( 3 ) ア 政治的表現など), 
(b)重大な制約があり(( 1 ) 事前抑制,(3)ア 思想の自由市場をゆがめる表現内容規制 など), 
(c)特に国の側の裁量を尊重する事情がない場合(裁判所にとって審査するのが難しい専門技術的・政策的判断が必要でない事件の場合) 
には,厳格な基準を用いるべきだということになる。この点は,表現の自由だけでなく,すべての人権制限の問題に共通する頭の使い方(思考様式 )である。 
    ③もっとも,最高裁は,特に表現の自由の分野では,厳格な基準を用いて判断することが少なく(例外は( 1)事前抑制ぐらい),また,結論しか述べておらず,理由づけが簡素なものも多い。そこで,上にあげた学説上の議論を参考にしながら,判例の立論を 「補充」ないし「批判」しつつ,適切な基準を自分なりに設定して判断する必要がある。 
    ④判例は,何らかの基準を示す場合でも,何度も確認している通り,「公共の福祉に合致する(正当な)目的のため必要かつ合理的な手段か否か(あるいは相当な手段か)」という基準一本で,ほとんどの事案に対応している。そして,上記の(a)~ (c)の点に照らしながら,その「必要」性(他に手段はないのか)や「合理」性(その手段は目的にとって役に立つのか),「相当」性(得られる利益と失われる利益のバランス)を,踏み込んで(厳格に)審査したり,緩やかに審査したりする,というやり方である。 
    ⑤ただし,その際に判例は,上記③で述べた通り,どのくらいの厳格度で審査したのか,またその厳格度を採用した理由はどこにあるのか,を全く説明せずに,結論だけを述べることが多い。そのため,判例に依拠した立論をする場合には,各自でこうした基準の厳格度の決め手になるポイントを,学説の助けなどを借りながら「補充」しておく必要がある場合が,特に表現の自由の分野では多い。 
    ⑥また,もちろん,判例の立論が妥当でないと思えば,それを「批判」して学説の基準に依拠することも,各人の判断において自由に行いうる。もっとも,その場合でも,必ず判例に言及し,明示的に批判した上で自説を展開することを,忘れないでほしい。そうしないと,判例を知らないものと読まれてしまうので注意のこと。 
    ⑦なお,表現の自由と人格権(名誉 ・ プライバシー )が衝突している事案は,厳密に言うと, 国と個人の間の争いではなく,個人と個人との争いである。こういう場合には,上記①②とは違った考え方をする必要がある。 
    ⑧また,(2)明確性・過度広範性が問題となった事案では,その不明確・過度広範な法令の文言を,憲法違反にならないように狭い意味で解釈(合憲限定解釈)できるかどうかが検討され(たとえば「 公の秩序を乱す恐 れ 」と いう 不明確・過 度広範な条文 は,その「 おそれ 」が「 明白」・ 「切 迫 」 している場合, と限定するなど),その狭い意味に解釈した条文の要件に,問題となった当事者の行為が当たるかどうかが審査される。目的手段・衡量審査と合憲限定解釈との関係→なお,①不明確・過度広範な法令の文言を,法令(≠憲法)の文言・趣旨目的・体系に照らしながら限定解釈し,②さらにその限定解釈した法令について,目的・手段型の審査 をして,憲法違反か否かを確認する,という論じ方も,理論上は可能である(広島市暴走族条例事件など。法令解釈先行型)。 また,①ある法令の合憲性を目的・手段型で審査しつつ,その法令に違憲の部分(目的や手段に過剰な部分)が含まれている場合に,②その違憲の部分を規制の対象から外すような 限定解釈を,(法令の文言,趣旨目的,体系解釈も交えて)行い,法令自体は合憲だ,と論じることも可能である(泉佐野市民会館事件,「よど号」事件など。憲法解釈先行型)。 しかし,①ある法令の目的手段審査を行い,その法令を合憲だと結論づけた場合に,② さらにその法令の限定解釈をする,という流れで論じるのは,極めて不自然である(限定解釈する必要があるということは,法令の目的・手段に過剰な部分があるということであり,最初に目的手段審査をした意味がなくなっている)。
    ⑨さらに,この泉佐野市民会館事件のように,(6)表現の「場」を求める事件の時 は,そもそも表現の自由への制約があるのかどうかが問題となる。これを肯定するためには,その「場」が表現目的で設置されている証拠(地方自治法244 条と自治体の設置条例など)を挙げる必要があることにも留意したい。

集会の自由《公共施設の利用》

 以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。

1.意義 
・定義:①集会とは,多数人が政治・経済・学問・芸術・宗教などの問題に関する共通の目的をもって一定の場所に集まることをいう。 
    ②集団行動(集団行進,集団示威運動〔デモ行進〕)の自由も,「動く公共集会」として集会の自由に含まれうる。 
・判例:「集会は,国民が様々な意見や情報等に摂取することにより自己の思想や人格を形成,発展させ,また,相互に意見や情報等を伝達,交流する場として必要であり,さらに, 対外的に意見を表明するための有効な手段であるから,憲法 21 条 1 項の保障する集会 の自由は,民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならない」成田新法事件―最大判平成 4・7・1。百選 109 事件 
・特質:①表現の自由の保障のためには,表現をする「場」が必要である。しかし,たとえばテレビや新聞のようなマス・メディアという「場」を使って自分の意見を表現できる人は限られている(いわゆるマス・メディアへの「アクセス権」を認めることも難しい)。そのため,集会の自由の保障は,いわば一般国民の表現の場を確保するため,きわめて重要である(なお「ビラ貼り」・「街頭演説」のほか「インターネット上の表現」も,一般国民の表現手段として重要)。 
    ②他方,集会の自由は多数の人が集まる場所の提供に関わるものであり,さらに行動をともなうこともあるから,他者の権利と衝突しやすい。そのため「公共の福祉」 による規制を受けることがあるのはやむを得ない側面もある。具体的には次の二つの場面がよく問題になる(二つ目は次の項目で取り扱うことにする)。 
2.公共施設(公民館など)の利用 
・視点:①集会をするためには,一定の広さをもった「場」が必要となるが,広い場所だからといってそこで集会をすることが当然に認められるわけではない(豪邸の持ち主にそこで集会をさせろといえる権利は誰にもないし,国会が閉会中で空いているからといって国会議事堂内で集会をする権利は誰も持って いない)場を管理している者(管理権者)の「許可」を得ることが必要なのが通常である。国や自治体の施設を利用する場合に課される,こういう規制を「許可制」とい う。 
    ②他方,この「許可」を誰に(あるいはどのような集会に)対して出すのかを,その管理権者の自由な判断(自由裁量)に委ねてしまうと,集会の自由が憲法で保障された意味がなくなる恐れもある。この点,集会の自由が認められやすい場(管理権者が自由に不許可にできない場)と,そうでない場(管理権者が比較的自由に不許可にできる場)とを区別して考えるのが通例である国や自治体の施設は,学説上,「公の用に供される物(公物)」といわれ,これには次の二つのタイプがあると いわれる。すなわち,①官公庁・公用車など国・自治体自身が利用する「公用物」と,②公園・道路など公衆が 使用することが前提となっている「公共用物」である。先述の国会議事堂は①にあたり,後述の公民館などの「公の施設」(地方自治法 244 条)や皇居前広場などは②にあたる。一般論としては,②よりも①のほうが,管理権者 (国・自治体)は国民の集会としてのその施設の利用を自由に不許可にすることができる(裁量の幅が広い)といえる。くわしくは「行政法」で。。 
(1)「公の施設」(地方自治法 244 条) 
・条文:「公の施設」(地方公共団体が住民の福祉の増進のために設けた施設。公民館など。地方自治法 244 条)にあたる場合 
 ⇒地方公共団体は,正当な理由がない限り,住民が公の施設を利用することを拒ん ではならず,利用について住民を差別してはならない(同条 2・3 項)
 ⇒「正当な理由」の具体的な内容は,自治体が条例で定めていることが多い。 
・帰結:正当な理由のない利用拒否は,憲法上の集会の自由(憲法 21 条 1 項)の侵害になりうる(ただし,このように素朴に言えるのかは,実は極めて重要な論点である。以下のもう一歩前へを参照)。 
・判例:泉佐野市民会館事件(最判平成 7・3・7,百選 81 事件)
(2)「公共用財産」(国有財産法 3 条 2 項 2 号)―皇居前広場事件(最大判昭和 28・12・13,百選 80 事件) 
・判旨:皇居前広場で,メーデーの集会(約 50 万人が集まる)の許可を求めたが,広場の管理権者である厚生大臣(当時)が不許可にしたという事件。最高裁は,①皇居前広場は「公共〔福祉〕用財産」(国有財産法 3 条 2 項)にあたり,②これを国民が,この広場の設置目的の範囲内で利用する場合(集会目的での利用は広場の設置目的の範囲内である),許可するか不許可にするかは管理権者の「自由裁量」ではなく,その「財産の種類に応じ,またその規模,施設を勘案し,その公共福祉用財産としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであり,若しその行使を誤り,国民の利用を 妨げるにおいては,違法たるを免れない」と述べ,国民の集会の自由に一定の配慮を示した。③しかし,結論としては,この 50 万人という大規模の集会を許可すると,長時間にわたり他の一般国民が広場を利用できなくなり,広場の本来の利用が妨げられる恐れがあること,自然公園がかなり傷んでしまう恐れがあること,本件不許可処分は表現の自由を制約する目的でなされたものではないこと(集会・デモ行進を禁止・許可する権限は法律で大臣に与えられていないが,そうした権限外の行為を大臣が行ったわけではない),等の理由から,不許可処分は適法・合憲だとした。 
(3)参考①:施設の「目的外利用」―広島教研集会事件(最判平成 18・2・7) 
・内容:ある公立中学校の体育館を利用して,市内の中学校の教員が集まって「教育研究集会」―教育委員会が実施する法定の研修に反対する意見を持つ教員による集会であり,教育方法についての自主的な研修という側面と,国・教育委員会の方針等に反対する政治・労働集会という側面もある集会―を 行う,というような,その施設の本来の目的とは異なる使い方(目的外利用)をする場合,使用の許可・不許可について,管理権者(校長)の裁量が認められ(やすくな)る。公立学校は「公の施設」(地 方自治法 244 条)だが,学校施設は「行政財産」(同 238 条)であり,設置目的たる教育目的に沿った利用は「公の施設」の利用になるが,目的外での利用は「公の施設」の利用にならない。 
・判例:①「学校教育上支障があれば使用を許可することができないことは明らかであるが,そのような支障がないからといって当然に許可しなければならないものではなく,行政財産である学校施設の目的及び用途と目的外使用の目的,態様等との関係に配慮した合理的な裁量判断により使用許可をしないこともできる」。 
    ②「管理者の裁量判断は,……諸般の事情を総合考慮してされるものであり,その裁量権の行使が逸脱濫用に当たるか否かの司法審査においては,その判断が裁量権の行使としてされたことを前提とした上で,その判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し,その判断が, 重要な事実の基礎を欠くか,又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限 って,裁量権の逸脱又は濫用として違法となる」。 
    ③「従前,同一目的での使用許可申請を物理的支障のない限り許可してきたという運用があったとし ても,そのことから直ちに,従前と異なる取扱いをすることが裁量権の濫用となるものではない。 もっとも,従前の許可の運用は,使用目的の相当性やこれと異なる取扱いの動機の不当性を推認させることがあったり,比例原則ないし平等原則の観点から,裁量権濫用に当たるか否かの判断において考慮すべき要素となったりすることは否定できない。」 
    ④「〔本件集会を許可すると,この集会に反対する右翼団体の街宣車等が訪れて〕本件中学校及びその周辺の学校や地域に混乱を招き,児童生徒に教育上悪影響を与え,学校教育に支障を来すことが予想されるとの理由で行われた本件不許可処分は,重視すべきでない考慮要素を重視するなど,考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており〔=不許可にした時点で,右翼団体による具体的な妨害の動きはなく,仮に当日に妨害があっても土日のため生徒への影響は小さく,むしろ不許可処分は教育委員会と教師との衝突を背景にしている〕,他方,当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず〔教研集会は,政治・動労運動という側面もあるが,それは前面に押し出されているわけではなく,全体として教育方法等についての自主的な研修という法の趣旨にも合致する集会であり,以前は同じ集会が長らく許可されてきた。また集会の際に学校施設を使わないと教育用の器具等の調達も不便〕,その結果,社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものということができる」。 
(4)参考②:民間の施設の利用―プリンスホテル事件(東京高決平成 18・1・30) 
・判例:日教組の集会の開催をいったん引き受けたプリンスホテルが,後にこの集会利用の契約を解約した。 これが集会の自由の侵害になるかどうか等が争われた。東京高裁は,“いったん契約を結んだ以上,正当な理由がない限り解約してはならない”と述べ,会場を使用させることをホテル側に命じた。他方, そもそも契約に応じる義務があるか,つまりホテルが集会としての使用を自由に拒否できないのか, という問題については,明らかにされなかった。
もう一歩前へ:「社会権」(?) パブリック・フォーラム(?) 
 以上のように,自治体が設置した施設を,住民が集会目的で利用しようとする場合,その自治体の施設が,広く住民に利用させることを目的とした「公の財産」(地方自治法 244 条)にあたる時には,自治体がその利用を「正当な理由」なく拒否すると,憲法上の集会の自由(21 条 1 項)の侵害になると言われる(上記(1)等)。逆に,施設の設置目的が,広く国民・住民に集会目的で利用させることにあるとはいえない場合―官公庁や学校など―,集会目的での利用は「目的外利用」 という扱いになり,その利用を拒否しても,必ずしも集会の自由の侵害の問題はただちには生じないと言われる(上記(3)等)。 
 
 もっとも,よくよく考えてみると,上記(1)の場合,どうして市民会館や公民館のような「法律」(地方自治法)上の「公の財産」の利用を拒否すると,「憲法」上の集会の「自由」が侵害されることになるのかは,実は必ずしも単純ではない。どういうことか,以下に少しくわしく説明する。 
 
 そもそも集会の「自由」(憲法 21 条 1 項)というものは,「自由権」として,集会が国によって妨害されないことを保障するものであり,2.の冒頭で述べたように,集会のための「場」を国に使 わせてくれと要求する権利=「社会権・請求権」は,集会の「自由」からは,ただちには出てこないはずである。 

自由権と社会権:自由権とは国に対して「何もするな」ということ(不作為)を要求する権利である。信教の自由,思想の自由など,憲法上の権利のほとんどはこのタイプである。これに対し,社会権(請求権・給付請求権)とは国に対して「何かをしてほしい」 ということ(作為)を要求する権利である。生活保護を国に要求する生存権(25 条)が典型例である。 

 いうまでもなく,国民・住民は,国や自治体に対し,公民館や市民会館を設置してほしいと要求する権利はもっていない。そのため,国も,公民館や市民会館を設置する義務があるわけではない。国・自治体が公民館等の「公の施設」を作らなくても,集会の自由は侵害されない。作るかどうかは国・自治体の自由(裁量)である。それなのにどうして,国・自治体がいったん「公の施設」を作ると,その利用を国・自治体が拒否したら,集会の自由の侵害になるのか。つまり, 集会の自由は,表現の「場」を作ってくれと要求する権利=請求権を含んでいない以上,国がたまたま作ったその「場」を使わせてくれと要求する権利=請求権も,集会の自由からは出てこないのではないか,したがって,その「場」の利用拒否は,憲法上の集会の自由の侵害にはならないのではないか,という問題が出てくる。 

 たしかに,「正当な理由」のない「公の施設」の利用拒否は,地方自治法等の法律には違反する。 しかしこれが,なぜ憲法上の集会の自由の侵害につながるのか。この点については,学説上いろいろな考え方が提示されている。 

(ア)考え方 A:集会の自由の「社会権(請求権)」的側面が法律(地方自治法等)によって具体化 
 集会の自由は,たしかに基本的には「自由権」であるが,「自由権」に分類される権利にも「社会権」と しての側面があると,一般に言われている。たとえば「知る権利」は,基本的には情報の収集を妨害されない権利=自由権であるが,さらに国の持っている情報の開示を求める情報公開請求権=社会権の側面があると言われている。これと同様に,集会の自由にも,単に集会を妨害されない自由権だけでな く,集会の場の提供を求める社会権も含まれると考えるわけである。もっとも,このような「社会権」としての側面は,憲法から直接導くことはできず,法律による具体化が必要だと言われる(「抽象的権利」といわれる)。この点,たとえば公の施設について定める地方自治法 244 条が,この集会の自由の社会権としての側面を具体化した法律だと考え,憲法(21 条 1 項の社会権としての側面)と法律(地方自治法 244 条)と が一体となって憲法問題が生じる,と考えるわけである。 
(イ)考え方 B:パブリック・フォーラム(くわしくは,百選 57 事件の解説や参考文献を参照) 
 学説では,アメリカの判例を参考に,人が自由に出入りし,意見を交わすことができる公共の場所を「パブリック・フォーラム」と呼び,その公共の場所が表現の場として要求された時には (集会のほか,ビラ貼り,演説など),その制限は憲法上の表現(集会)の自由の侵害の問題になり得ると言われている。この理論によれば,公共財産は次の三つに区別される。 

伝統的パブリック・フォーラム(道路・歩道・公園等)⇒国は,表現目的でのその場の使用を禁止できないのが原則。禁止・規制が合憲となるためには,厳格な基準が適用される(規制は重要な目的のための必要最小限度の手段である必要) 
指定的パブリック・フォーラム(公会堂・公立劇場等)⇒国が表現(集会などの)目的で設置した施設であるため,①と同様に,国は,表現目的でのその場の利用を禁止できず,その利用の規制に対しては, 厳格な基準が適用される(ただし,その施設を維持する義務は国にない)。 
非パブリック・フォーラム(その他の公共財産)⇒利用を許可するかは,原則として国の裁量。ただし, 国は,表現者の見解に反対だという理由で,その利用を拒んではならない。「見解による差別の禁止 

 たとえば道路でデモ行進をする自由は,一般に表現の自由の保障を受けると考えられているが (徳島市公安条例事件など),これもよくよく考えてみれば,道路という国が作った施設を,表現目的で使わせてほしいと要求する請求権・社会権としての側面がある。だが,少なくとも道路で表現行為をすることは,長らく当然のように認められてきたことから,表現の自由にもともと含まれている,と考えるのが,①伝統的パブリック・フォーラムの考え方である。この①伝統的パブ リック・フォーラムを,道路以外の②公民館などの指定的パブリック・フォーラムなどにも広げていこう,という発想である。 
 
 このパブリック・フォーラムの理論によれば,上記の考え方 A のような,「自由権か社会権か」 とか「憲法と法律(地方自治法)の関係」などの難しい問題をさしあたり棚上げにして,表現の「場」 の利用という問題を,憲法(集会の自由・表現の自由)の問題として素朴に扱うことができるように見えるため,比較的有力に主張されてきた。この理論によれば,公民館や市民会館は,表現・集会を市民にさせる目的で自治体が設置した施設だと解釈できる手掛かり(公民館や市民会館を設置する条例の目的 に「住民の集会」が含まれているなど)がある場合には,②指定的パブリック・フォーラムということになり, 正当な理由のない利用拒否は,憲法上の集会の自由の侵害の問題となる,と比較的単純に立論することもできるかもしれない(もっとも,具体的にどの施設がどの類型にあたるのかという判断は,必ずしも容易ではない等々の理由から,この理論は,当のアメリカ合衆国では,あまり重視されなくなりつつあるという指摘もある。そのため,この区分を絶対化する必要は全くないかと思われるが,集会の自由の規制の合憲性を考える上での,一つの「目安」にはなるかもしれない)。 
(ウ)最高裁の立場は? 
 最高裁は泉佐野市民会館事件で,上記の考え方 A自由権と社会権の違い,社会権の具体化立法)・考え方 B パブリック・フォーラム)のような議論には特に触れず,地方自治法 224 条の「公の施設」の利用を「正当な理由」なく拒否すると,憲法 21 条 1 項で保障された集会の自由が不当に制限される恐れがある,と素朴といえば素朴に,慎重といえば慎重に語っている(調査官解説は,判決は B の考えを念頭に置いているというが,いずれにしてもこの点は判決文には登場せず,理論的には物足りない印象もある。また後述のように,調査官は,集会の自由はあくまで自由権であるという観点から,「憲法上…本件会館の利用請求権があるとすることは問題がある」としており,A の考え方からも距離がある。)。 
 あえて,判例の立場を学説とつなげていえば,地方自治法 244 条の「公の施設」の一つとして 自治体が条例に基づいて設置した市民会館等は,住民に「集会」をさせる目的で自治体が設置した施設であり,その意味で,上記②の指定的パブリック・フォーラムにあたる,という考えを, 最高裁の判旨に読み込むことも,理論上は不可能ではないかもしれない。すなわち,「公の施設」 の一つとして集会目的で設置された市民会館は指定的パブリック・フォーラムと評価できるため, その施設の利用拒否は,憲法上の集会の自由の制約になると判断された,と再構成することはできるかもしれない(その上で,その利用拒否が許されるかどうかは,「正当な理由」(地方自治法 244 条)にあたるかどうか,という問題になり,その際には,憲法上の集会の自由を不当に侵害しないように,「正当な理由」の内容を限定的に解釈することとなる(「公の秩序」を乱す恐れが「明白」「切迫」している時だけ「正当な理由」になり利用拒否できる,とするなど)。 
 このように,仮に判例の立論を,あえてパブリック・フォーラム論と結びつけるとしても,判例の立論を軸に考えた場合には,ある施設が,②指定的パブリック・フォーラムにあたるかどうかは,その施設を国・自治体が「表現・集会の目的」で設置したと評価できるかどうかに左右される。そして,ある施設が,住民が表現目的で自由に利用できる「公の施設」(地方自治法 244 条)だといえるかどうかは,その施設を設置する根拠となる法律や条例の目的規定(1 条など,その施設の目的の一つに「住民の集会のため」と書いている規定など)を見て判断することになる。 
 そのため,単に「この施設は指定的パブリック・フォーラムにあたるから,利用拒否が集会の自由の制約にあたる」と述べるだけでは不十分であり,地方自治法 244 条と,その施設の設置根拠となっている法律・条例の目的規定(1 条など)を挙げる必要がある(もちろん,こうした「法律(条例)」の規定のあり方が,「憲法」上の保障の有無を左右する(憲法上の保障内容を法律から逆推論)というのは,憲法の最高法規性(憲法 98 条 1 項)から するとおかしいのではないか,という批判はありうる。この意味でも,純粋な憲法論を目指す学説上のパブリック・フォーラム論と,法律の規定のあり方を重視する判例の立場は,やはり異なる部分がある。判例の立場を前提としつつ,こうした「逆推論」の弊害を避けるためには,たとえば, 地方自治法 244 条は,憲法上の要請の「確認」規定であって「創設」規定ではない,という観点を導入するやり方もありうる。なお,調査官は,先述のように,集会の自由はあくまで自由権であるという観点から,「憲法上…本件会館の利用請求権があるとすることは問題がある」が,「『平等な 利用』を妨げられない権利があるということができる」といい,本判決が,“集会の自由を不当に制限するおそれがある”という微妙な表現にとどめているのも,この考えのあらわれであるという。憲法論よりは地方自治法の解釈論が軸に置かれている最判解民事編平成 7 年度 296 頁〔近藤崇晴〕。こうした判例の立論の背後には,憲法上のパブリック・フォーラ ム論よりも,「給付における公平性」という,民法(契約自由)とは異なる行政法上の法律解釈論(「公の営造物」 論)が置かれているという指摘について,櫻井智章『判例で読む憲法』(北樹出版,改訂版,2019 年)156 頁。なお,同 167 頁は,パブリック・フォーラム論は,伝統的パブリック・フォーラムに当たるはずの道路や公園等の判例を説明できないという

 これに関連して,公立図書館の職員が,図書館に所蔵されていた本を,自分の思想に合わないという理由で独断で廃棄したことが,その本の著作者の表現の自由の侵害になるか,という点が争われた事件がある(船橋市西図書館蔵書廃棄事件:最判平成 17・7・14。百選 74 事件)。この事件にも,上で述べた問題と類似の問題が含まれている。そもそも本の著者は,たしかに表現の自由を有しているが, しかし,表現の自由=自由権があるからといって,国に対して,図書館を設置してほしいとか, 自分の本を図書館に入れてほしいと要求する権利=請求権があるわけではない。図書館を作るかどうか,作った図書館にどのような本を入れるかどうかは,基本的に国の自由(裁量)である。そうすると,たまたまその図書館に置かれることになった本の著者は,やはりその自分の本を図書 館に置き続けてくれと要求する憲法上の権利=請求権は有しておらず,したがって蔵書を廃棄しても,著者の表現の自由は侵害されないのではないか,という問題が生じる。この点について最高裁は,結論としては,著者の権利が侵害されたと判断したが,その際,なぜ表現の自由が関わるのか(図書館は著者のためのパブリック・フォーラムなのか)について詳しく述べていない。表現の自由というよりも「人格権」(人格的利益)の侵害として構成しているように見えるなお,このようなかたちで,国や自治体が,図書館や美術館,公民館などの国立・公立の施設について,特定の思想を持った人には使わせないということを行ったり,特定の思想を持った人だけに国が援助をしたり,援助の条件として「政府を批判しないこと」という条件(違憲の条件)をつける,ということが行われると,国が特定の思想を支持し,あるいは特定の思想に反対している,というメッセージを(図書館や美術館などの専門家の判断を隠れみのにして)国民に送ることになる。こうした問題が,最近の学説では,「政府言論(government speech)」 というかたちで議論されている。詳しくは,蟻川恒正「政府と言論」ジュリスト 1244 号(2003 年)91 頁のほか, 百選 70 事件の引用文献を参照のこと。
(エ)目的外利用や非パブリック・フォーラムの利用の場合には? 
 目的外利用や非パブリック・フォーラムの利用の場合には,その場を表現目的で利用する行為が憲法 21 条 1 項(集会の自由)で保障されている,とは言いにくい側面もある。この場合,憲法論として何が言えるのかは,学説でもまだ議論が固まっていないところではあるが,次のような方法が一応考えられる。無難なのは①か②であろう。 

①利用の不許可が「見解・観点に基づく差別」に基づく場合,憲法 14 条違反(平等原則違反)を主張 
「見解・観点に基づく差別」,「見解中立性」への違反(客観法違反。憲法 14 条か,あるいは同 21 条 1 項と 14 条を合わせて持ち出す)があったことを,不許可処分の根拠となった行政法規の解釈の中で持ち出し,行政裁量を狭める事由にする(行政庁の広い裁量にゆだねるのではなく,行政庁の判断過程を厳格に審査するなど) 
③「見解・観点に基づく差別」,「見解中立性」への違反があったことを,損害賠償請求訴訟の中で,私法上の被侵害利益(人格的利益)の認定の際に持ち出す(船橋市蔵書廃棄事件のアプローチ) 
 ④素朴に憲法 21 条 1 項(権利)の違反として論じる(最後の手段) 

違憲審査基準論《人権の限界》

 なお、以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。


1.意義 

・視点:①人権の限界に関する判例の考え方を知る上では,「比較衡量」・「比例原則」が重要である。 

    ②他方,学説では長らく,比較衡量論に対して批判的な見解が主張されてきた。すなわち, 比較衡量論は,一般的に比較の準則が必ずしも明確ではなく,とくに国家権力と国民との利益の衡量が行われることが多い憲法の分野においては,国家権力の利益が優先する可能性が強い点に,根本的な問題があると,学説ではいわれている。 

     ③そこで,この点を克服するために,学説で主張されてきたのが,アメリカ判例に由来する「二重の基準の理論」に基づく「違憲審査基準論」であり,判例でも時に,部分的に言及されることがあるように見える部分もある。 

・定義:二重の基準の理論とは,「表現の自由のような精神的自由を制約する国の行為(法律など)の合憲性は,経済的自由(職業の自由=憲法 22 条 1 項など)の制約における以上に厳格な基準」に よって判断されなければならない(泉佐野市民会館事件,最判平成 7・3・7,百選 81 事件),という考え。 

・判例:①泉佐野市民会館事件 
    ②レペタ事件(「表現の自由の制約の場合に一般に必要とされる厳格な基準」) 
    ③「北方ジャーナル」事件「表現の自由,とりわけ,公共的事項に関する表現の自由は,特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならない」) 
    ④税関検査事件(後述)(「表現の自由は,憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものである」) 
    ⑤小売市場事件(最大判昭和 47・11・22,百選 91 事件)(「個人の経済活動の自由に関する限り,個人の精神的自由等の場合とは異なって,……一定の合理的制限を講ずることは……憲法が許容する」) 
    ⑥薬事法事件(最大判昭和 50・4・30,百選 92 事件)(「職業の自由は,……精神的自由に比較して,公権力による規制の要請が強く」) 
⇒これらの判例は,二重の基準の理論,少なくとも表現の自由が特に重要であることに, 一般論としては言及している。しかし,特に最高裁は,表現の自由を制限する法律の合憲性を,必ずしも厳格に審査しているわけではない。この点が,学説によって批判されている。 
⇒近年は,このアメリカ判例に由来する二重の基準論よりも,ドイツ判例に由来する「三段階審査論・比例原則」という考え方のほうが,日本の判 例を読み解く上で有用なのではないか,という意見も,有力になりつつある。この点は,後の職業の自由のところでも詳しく扱うが,学説で長らく通説だった二重の基準 という考え方が,日本の判例に影響を与えた部分も全くないわけではないため,以下, どこまで影響を与え,どこまで影響を与えていないのかという点に着目しながら,二重の基準論に関連する諸法理,すなわち表現の自由を制限する国家行為(法律等)の合憲性を裁判所が審査するときに守るべき諸ルールを見ることにしたい。 
・根拠:①民主政の過程論 経済的自由に関する不当な立法は,民主政の過程が正常に機能している限り,議会でこれを是正することが可能であり,適当でもある。これに対して, 民主政の過程を支える精神的自由は「壊れやすく傷つき易い権利」であり,それが不当に制限されている場合には,国民の知る権利が十分に保障されず,民主政の過程そのものが傷つけられているために,裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営を回復する必要がある。 
    ②裁判所の審査能力論 経済的自由の規制については,社会・経済政策の問題が関係することが多く,政策の当否について審査する能力が乏しい裁判所としては,特に明白に違憲と認められない限り,立法府の判断を尊重する態度が望まれる芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店,第 7 版,2019 年)202 頁。二重の基準の根拠については,学説上さまざまな議論がなされている。詳細は,文献を 探す手がかりにもなりうるものとして,松井茂記「違憲審査基準論」大石眞・石川健治編『Jurist 増刊・憲法の争点』(有斐閣,2007 年)282 頁,内野正幸『憲法解釈の論理と体系』(日本評論社,1991 年)216 頁以下,曽我部 真裕ほか『憲法論点教室』(日本評論社,第 2 版,2019 年)17 頁〔松本哲治〕,石川建治ほか『憲法訴訟の十字路』 (弘文堂,2019 年)等を参照のこと。 。 

2.検閲の禁止 

(1)判例――税関検査事件判決(最大判昭和 59・12・12,百選 73 事件)

(2)学説


ア 規制主体・規制の態様 

 A 説(行政権説,絶対禁止(=例外を認めない)説) 
・結論:検閲とは,表現行為に先立ち行政権がその内容を事前に審査し,不適当と認める場合にその表現行為を禁止することを意味する佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂,2011 年)256 頁。 
・理由:検閲禁止の絶対性を貫くためには,その主体を行政権に限定する必要がある。 
・帰結:裁判所による差止めは,憲法が禁止する検閲には該当しない(裁判所による事前差止めは,「表現物の内容の網羅的一般的な審査に基づく事前規制が行政機関によりそれ自体を目的として行われる場合とは異なり,個別的な私人間の紛争につい て,司法裁判所により,当事者の申請に基づ」いて行われるものであるため,「検閲」には該当しない(「北方ジャーナル」事件。 
 B 説(公権力説,相対禁止(=例外を認める)説) 
・結論:検閲の主体は,行政権に限定されず,広く公権力と解すべきである。 
・帰結:裁判所による差止めも検閲に該当しうる。ただし,「裁判所による場合には,その手続きが公正な法の手続きによるものであるから,行政権による検閲とは異なり,例外的な場合(たとえば公表されると人の名誉・プライバシーに取返しがつかないような重大な損害が生ずる場合)には,厳格かつ明確な要件のもとで許されることもある」。 
イ 規制の対象 
①思想内容説⇒思想にかかわらない教科書検定は検閲には該当しない(東京地判昭和 45・7・17,百選 87 事件) 
②表現行為説⇒教科書検定も検閲になり得る。
ウ 規制の時期 
①発表前説⇒行政機関による一定図書の「有害図書指定」は,発表後に行なわれるものである以上,検閲にはあたらない(岐阜県青少年保護育成条例事件,百選 50 事件)。
②受領前説⇒発表後でも国民の受領前に行われる有害図書指定は,検閲に該当しうる。 
エ 規制内容・効果 
①発表禁止説⇒他の発表手段を用いることが禁止されていなければ検閲には該当しない。たとえば,教科書検定は,検定不合格となった図書を一般図書として販売することについて禁止されていなければ,検閲にはあたらない(最判平成 5・3・16,百選 88 事件)。 
②表現行為禁止説⇒教科書として販売したい,という表現行為を禁止すること自体が検閲になる。 
*判例の立場の確認
① 最高裁は,検閲について,基本的にこれを狭く捉える立場に立っており,上記(行政権)・(思想内容)・ (発表前)・(発表禁止)という特徴を有するものと定義している。もっとも,判例はさらにオ「網羅的・一般的」な審査をするのが検閲だ,という要素も付け加え,検閲を狭く捉える学説よりもさらに狭い定義を用いている。これに対しては,検閲を狭く捉える学説からも,狭すぎるという批判がある(佐藤・上掲書)。 なお,この「網羅的・一般的」な審査という要素があるため,刑務所などでの親書・新聞の閲読制限(参照, 「よど号」事件(最大判昭和 59・6・22,百選 14 事件))は,“特定の人の一部の表現物”に規制の範囲が限 定されるため,検閲には当たらないことになると,税関検査事件の調査官解説は言う(最判解民事編昭和 59 年度 488 頁〔新村正人〕)。 
② 他方で,最高裁の立場では,これらア~オの特徴を一つでも欠いていれば,それは検閲には当たらない, と単純に判断されているわけではなさそうである。たとえば税関検査事件で最高裁は,検査の対象となる本は国外で発表済みであり発表の機会を全面的に奪うものではなく「事前抑制そのもの」ではない(ウ・エの色彩が弱い),税関検査は思想内容等それ自体を網羅的に審査する目的ではない(イ・オを欠く),裁判所による審査の機会もあり行政権の判断が最終的ではない(の色彩が弱い),という点を「総合的に考察」して, 検閲ではないと判断している。また,北方ジャーナル事件も上記のように,出版差止は行政権ではなく裁判所が行うから,という点だけでなく,当事者の申請による個別的な審査で,網羅的一般的な審査ではない,という点などを考慮して,検閲ではないと判断している。さらに最高裁は,検閲の対象について,思想内容「」という表現を用いている。そのため,少なくとも文言の上では,思想内容以外の表現物を審査の対象とするものであっても,検閲に当たる可能性は,理論上は残されている。“審査の対象が思想内容ではないから”という理由だけで,それは検閲ではない,という結論にすぐに達するわけではなさそうである。 
③ このように,判例の立場に依拠して検閲に当たるかどうかを判断する際には,ア~オのどれか一つについ て検討すれば十分というわけではなさそうなので,複数の要素を検討しながら,これらを「総合的に考察」 して結論を出すほうが丁寧な論証になる。税関検査事件判決の調査官解説も同様のことを述べており,その際,同判決は,検閲の要素を厳密に過不足なく定義しつくしているわけではなく,上記ア~オはあくまで検閲の「特質」だと述べるにとどめているという(新村・前掲 489 頁)。
3.「事前抑制の禁止」の原則―「北方ジャーナル」事件判決(最大判昭和 61・6・11,百選 68 事件)
・判旨:「表現行為に対する事前抑制は,表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法 21 条の趣旨に 照らし,厳格かつ明確な要件の下においてのみ許容され得る」。 
・根拠:①表現行為に対する事前抑制は,思想の自由市場への流通を阻害し,その表現物への公の批判の機会を減少させる。 
    ②事前抑制は,その性質上,予測に基づくものとならざるを得ない以上,事後制裁(出版後の損害賠償など)の場合にと比べて広汎にわたりやすい。 
    ③実際上の抑止的効果(表現の自由へのダメージ)が事後制裁の場合より大きい。 
*「検閲」と「事前抑制の禁止」との関係 
・視点:①検閲と事前抑制の禁止については,特に区別しない見解(芦部・前掲書 207 頁)と,両者を 区別する見解とがある。 
    ②両者を区別しない見解(芦部説)によれば,裁判所の差止めも「検閲」(憲法 21 条 2 項)の 問題となる。 
    ③これに対し最高裁は,上記の「北方ジャーナル」事件判決において,「検閲」と「事前抑制」を区別する見解を採用している。判例によれば,両者の違いは次のようである。 
 (ア)根拠条文  検閲禁止:21 条 2 項、事前抑制:21 条 1 項と 21 条 2 項の両方の「趣旨」 
 (イ)主体  検閲禁止:行政権、事前抑制:公権力すべて 
 (ウ)禁止の態様  検閲禁止:絶対禁止(一切の例外は認められない)、事前抑制:相対禁止(例外的に,事前抑制が許される場合がある)
*判例における表現規制の態様(強さ)と審査基準 
①「検閲」 ⇒「絶対」禁止(税関検査事件) 
②「事前抑制そのもの」(出版差止め等)⇒「厳格かつ明確な要件」の下でのみ許される(北方ジャーナル事件) 
③「事前抑制たる側面」はあるが「事前抑制そのものではない」(税関検査など) 
  ⇒「公共の福祉に合致」し「やむを得ない」規制か(税関検査事件) 
④「事前抑制そのものではない」(教科書検定など)
  ⇒「公共の福祉のため必要かつ相当」な規制かを「比較考量」 して判断(家永訴訟) 
⇒判例は,上記③・④の場合にについて,特に厳格な審査は行っていないように読める。これに対し,学説では,税関検査や教科書検定は,事前抑制そのものではないとしても事前抑制的な側面がある以上は,厳格な基準で審査すべきだと主張する傾向にある。 
4.明確性の理論 
(1)判例 
・徳島市公安条例事件(最判昭和 50・9・10,百選 83 事件)
・広島市暴走族条例事件(最判平成 19・9・18,百選 84 事件)
・税関検査事件(百選 69 事件) 
・岐阜県青少年保護育成条例事件(百選 50 事件)
(2)学説 
・定義:明確性の理論とは,精神的自由を規制する立法は明確でなければならないという考え。 
・根拠:①国民の自由に対し,刑罰の脅し(威嚇)をもって規制する法律(刑罰法規)は,明確でなければならない(罪刑法定主義。憲法 31 条:犯罪の告知・行政の恣意の禁止)。(手続的要請。 
    ②特に表現の自由を規制する刑罰法規が漠然不明確な場合,表現の自由(憲法 21 条 1 項)に対 して萎縮的効果(本来合憲的に行なうことのできる表現行為をも差し控えさせてしまう効果)を及ぼす(実体的要請。 
・類型:①「漠然性のゆえに無効」⇒法律の文言自体が不明確である場合 
      例:「風俗を害する図書」(税関検査事件),「交通秩序を維持」(徳島市公安条例事件),「有害図書」 (岐阜県青少年保護育成条例事件)など 
    ②「過度の広汎性のゆえに無効」⇒文言自体は明確でも,規制の範囲があまりにも広く, 違憲的に適用される可能性がある場合 
      例:暴走族による集会を規制した条例の文言が,暴走族の集会以外の集会も規制の対象に含まれるように解釈できるような文言になっていたため,憲法で保障された一般国民の集会の自由(21 条 1 項)を侵害する可能性がある場合(広島市暴走族条例事件
①の「漠然性のゆえに無効」の学説上の説明は,“合理的な限定解釈によって法文の漠然不明確性が除去されない限り,仮にその法規の合憲的適用の範囲内にかると考えられる行為が争われるケースでも,原則として法規それ自体が違憲無効(文面上無効)となる,”というものである。 ②の「過度の広範性のゆえに無効」の学説上の説明は,“法文はいちおう明確でも,規制の範囲があまりにも広汎で違憲的に適用される可能性のある法令も,その存在自体が表現の自由に重大な脅威を与える点で,不明確な法規の場合と異ならない”というものである。以上,芦部・前掲書を参照。
・帰結:①法令が不明確・過度に広汎な場合には,たとえその法令に違反したとして起訴された被告人が,その法令が禁止する典型的な行為を行った場合でも,法令自体が違憲・無効となる(被告人は無罪)。 
    ②たとえば,ある法令で,デモ行進の際に「交通秩序を維持」しなかった者には刑罰を科する,という文言が使われていると,どこまでの行為が取り締まりの対象になるのかが分からず,一般国民のデモ行進の自由(表現の自由)を侵害するおそれがある。しかし少なくとも,たとえば蛇後進・道路いっぱいを占拠して歩くこと・道路での座り込み,など が禁止されるであろうことは,「交通秩序を維持」というこの文言から読みとることもできる。そして実際,デモ行進の際に蛇後進をして起訴された被告人がいたとする。その被告人自身にとっては,その法令は不明確なものとはいえず,必ずしも被告人自身のデモ行進の自由(表現の自由。憲法 21 条 1 項)を不当に侵害する違憲のものとはいえない。しかしその被告人は,裁判で“法令が不明確であり,一般国民のデモ行進の自由(表現の自由)に対し萎縮的効果があるため,この法令全体が違憲・無効(文面上違憲)であり,自分は無罪だ,と主張することができる。 
    ③もっとも,一見すると不明確・過度に広汎なように読める文言も,一般国民の表現の自 由を侵害しないようなかたちで,狭い意味で解釈すること(合憲限定解釈)が可能であ れば,法令自体は違憲・無効にはならない。 
    ④たとえば,「交通秩序を維持」とは“「蛇後進・道路の占拠・座り込みデモ」などを禁止する意味であり,それ以外のデモ行進には適用されない”と解釈できる場合には,法令 は不明確・過度に広範とはいえないため,違憲・無効にはならない。 
    ⑤ただし,このような裁判所による合憲限定解釈は,場合によっては法文の読み替え,新たに法律を作り直す行為になる恐れもあるため,裁判所が自由に行ってよいものではなく,そこには限界もある(この合憲限定解釈の限界は,税関検査事件判決が示している)すなわち,税関検査事件判決は,「表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許される」要件として,「その解釈により,規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され,かつ,合憲的に規制しうるもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず,また,一般国民の理解にお いて,具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から 読み取ることができるものでなければならない」と述べている。この点については,芦部・前掲書 214 頁。また, 横大道聡編著『憲法判例の射程』(弘文堂,第 2 版,2020 年)358 頁〔吉川智志〕,371 頁〔柴田憲司〕も参照のこと。。 
*判例の立場の確認 
①判例は必ずしも「漠然性」と「過度の広汎性」とを明確に区別していない徳島市公安条例事件,税関検査事件,岐阜県青少年保護育成条例事件など。また,表現の自由の事件ではないが,「淫行」の禁止という文言の明確性・過度広汎性について,憲法 31 条の問題として検討した,福岡県青少年保護育成条例事件:百選 108 事件を参照のこと)。他方,広島市暴走族条例事件は,問題となった条例を,主として「過度の広汎性」の問題としてとられているように見える。 
②明確性の要請の根拠条文について,かつて判例は主に憲法 31 条の罪刑法定主義の問題として論じたが(徳島市公安条例事件),後に憲法 21 条 1 項(表現の自由)も併せて扱っている(税関検査事件)。さらに,これら以外の場面でも,個人の自由を制限する時には明確な法律の根拠が必要だという「法原則」 が一般的に存在し,その旨が特に憲法で明文化されている場合(31 条のほか税金に関する 84 条,財産権に関する 29 条など)にはその明確性が厳格に要求される,という思考を判例は示している(旭川市国民健康保険条例事件。最大判平成 18・3・1,百選 196 事件)。 
③なお,今のところ,“法令が不明確・過度に広汎であるため違憲・無効だ”と判断した最高裁判例はない。判例は基本的に,“そもそも不明確ではない”とか,“たしかに法令には不明確な部分も あるが,通常の判断能力を有する一般人の理解によれば,問題となった被告人の行為がその法令 で禁止されていることは読み取れる”とか,あるいは“合憲限定解釈をすれば不明確とはいえない”というかたちで処理している。 
5.「明白かつ現在の危険」の基準 
・学説:ある表現行為を規制することができるのは,次の要件を満たした場合である。 
 ①当該表現行為が近い将来,ある実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白であること 
 ②その実質的害悪が極めて重大であり,その害悪の発生が時間的に切迫していること
 ③当該規制手段が上記害悪を避けるのに必要不可欠であること 
・適用場面:学説では,一定の表現内容を規制する立法のような表現内容規制,たとえば政府に反対するための暴動をあおる表現(煽動)を処罰するような法律の合憲性を判断する際に, この基準が有用だといわれる。 
*関連判例 
(1)違法行為の教唆・煽動判例は「明白かつ現在の危険の基準」を明示的には使っていない 
・判例:①犯罪の煽動と表現の自由(最大判昭和 24・5・8,百選 48 事件) 
    ②破壊活動防止法上の「せん動」剤と表現の自由(最判平成 2・9・28,百選 49 事件) 
・分析:いずれも,政府を批判する暴動をあおる行為を処罰する法律について,“表現の自由も絶対無制約ではなく,「公共の福祉」のための制約があり,犯罪をあおる表現行為を法律で取り締まっても憲法違反ではない”という簡単な理由づけで合憲と判断。 
(2)その他 
・判例:③戸別訪問の禁止(最判昭和 42・11・21)⇒(「明白かつ現在の危険の基準」に消極的) 
    ④泉佐野市民会館事件⇒(「明白かつ現在の危険の基準」に親和的) 
・分析:(a)③は,選挙運動の際に戸別訪問を禁止する規定は,選挙の公正に対する「害悪の生ずる明白にして現在の危険があると認められるもののみを禁止しているわけではない」と述べた。 
    (b)他方,④は,集会のための市民会館の利用申請に対し,市長が不許可の処分を出すべきことを定める,泉佐野市民会館条例 7 条 3 号のいう「公の秩序を乱すおそれがある場合」に あたるといえるためには,集会を許すことで,他者の安全等に「明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要である」と述べた。 
6.「より制限的でない他の選びうる手段(LRA)」の基準⇒「必要性」の審査に類似 
・学説:これは,立法目的(法令が規制をすることによって達成しようとしている目的・保護法益)の達成にとって必要最小限度の規制手段を要求する基準である。すなわち,表現の自由を規制している法令につき, 同じ程度に立法目的を達成できる,規制の程度のより少ない手段(less restrictive alternatives) が存在するかどうかを具体的・実質的に審査し,それがありうると判断される場合には,問題となった規制立法を違憲とする基準である。 
・適用場面:学説では,表現の時・所・方法の規制のような表現内容中立規制の合憲性を検討する場合に有用といわれる。たとえば張り紙を電柱に貼付することを禁止する条例の合憲性等。 
関連判例:ビラの貼付・配布,立て看板の設置,街頭演説等 
(1)社会的利益・公益(美観風致の維持,公衆に対する危害防止)との衝突 
・判例:⑤屋外広告物条例と表現の自由(最判昭和 43・12・18,百選 55 事件) 
    ⑥立看板と表現の自由(最判昭和 62・3・3,百選 56 事件) 
・分析:(a)⑤広告ビラを電柱に貼ること,⑥立看板を街路樹にくくりつけること,を禁止する条例が,表現の自由の侵害になるかどうかが争われた。最高裁は,⑤・⑥のいずれについて も,「都市の美観風致」・「公衆に対する危害防止」という「公共の福祉」を維持するための「必要かつ合理的な制限」であるという簡単な理由づけで合憲と判断。判例はいずれについても,「必要性」(LRA)を必ずしも踏み込んで審査していない(より制限的でない手段で規制目的が実効的に達成できるかが不明なため,その点の判断を立法者に委ねて,あるいはほかに手段はないと判断して, 合憲と判示していると再構成することも可能)。 
    (b)なお,⑥の事件で,伊藤正己裁判官の補足意見は,一方で「パブリックフォーラム」論について言及し,表現の自由への配慮を示したが,他方で問題になっている立て看板の設置禁止の法令は「表現内容中立規制」であるため,厳格な基準は不要だとしつつも,この規定を具体的事件に適用することによって得られる利益 と,当事者に生じる不利益とを比較考量した場合,この法令の適用が違憲になる可能性があるという。この立て看板を禁止する条例の規定自体が合憲か否かという問題(法令審査) よりも,条例・法令の具体的な事件への適用が,その当事者の憲法上の権利を侵害し違 憲になるかという問題(適用・処分審査)に目を向けている。 
(2)私益(他者の財産権(29 条),プライバシー(13 条)等)との衝突 
・判例:⑦ビラ貼りと表現の自由(最大判昭和 45・6・17,百選 A7 事件) 
    ⑧駅構内でのビラ配布と表現の自由(最判昭和 59・12・18,百選 57 事件) 
    ⑨立川反戦ビラ事件(最判平成 20・4・11,百選 58 事件) 
・分析:(a)⑦他人の家屋にビラを張る行為を禁止する軽犯罪法 1 条 33 号,⑧鉄道会社の構内で無断でビラを配布する行為等を禁止する鉄道営業法 35 条,⑨防衛庁の宿舎に反戦ビラ配布の目的で立ち入りビラをポストに投函する行為を住居侵入罪(刑法 130 条)として処罰す ることが,それぞれ表現の自由の侵害になるが争われた。最高裁はいずれの規制についても,他人の財産権という「公共の福祉」を守るための「必要かつ合理的」な制限であり合憲と判断。上記(1)の判例と同様,やはり必要性(LRA)を踏み込んで審査しておらず,学説とは異なる部分がある。 
    (b)その際,判例は,「表現そのもの」と,「表現をするための手段」の区別を前提に,これらの事件では,その「手段」を制限しているにすぎないという思考を示している。この区別は,新潟県公安条例事件判決(最大判昭和 29・11・24,百選 82 事件)以来,最高裁によって伝統的に引き継がれている思考だとみることもできる。これは,学説上の内容規制・内容中立規制の区別に,そのまま対応しているわけではないことに注意(以下の*注意点②)。
    (c)なお,⑥・⑧事件で,伊藤正己裁判官の補足意見が示した「パブリックフォーラム論」 が注目されている。ちなみに,⑧事件での伊藤裁判官のパブリックフォーラム論は,㋐国・自治体の施設だけでなく私人(京王)の施設も含めていること,㋑公共施設の利用請求権が憲法で保障されるかという問題よりも,保障されることを前提に,利益衡量の際に表現の自由に有利に作用する要素として位置づけ ている,という点で,学説・通説とは異なっている(百選 57・58 事件の解説も参照)。 
注意点① 表現内容規制⇒厳格な基準,表現内容中立規制⇒中間的な基準(LRA の基準),という機械的な区別に対しては,学説上有力な批判もあることに注意くわしくは,市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社,2003 年)75 頁以下,同『司法審査の理論と現実』(日本評論社,2020 年),橋本基弘『表現の自由』(中央大学出版部,2014 年)169 頁以下などを参照。 。 
⇒表現活動へのダメージという観点から見れば,内容中立規制は内容規制よりも小さいとはいえないこともある。たとえば,素朴に考えて,「他人の名誉を傷つけるビラのみを電柱に貼ってはならない」という規制(内容規制)と,「すべてのビラを電柱に貼ってはならない」という規制(内容中立規制)とでは,後者のほうが,表現物の流通量を妨げる程度は大きい。 
⇒また,内容中立規制という外形を借りて,実質的には内容規制が行われることもあり得る。上述の立川反戦ビラ事件で問題となった住居侵入罪(刑法 130 条)は,政治ビラ配布の目的でも商業チラシ配布の目的でも,他人の家に立ち入った者を処罰するという意味では,内容中立規制である。しかし,もしこの事 件で,被告人が自衛隊に賛成するビラを配布していたとすれば,そもそも起訴されなかった可能性もある。そういう意味でこの事件は,特定の表現:自衛隊批判を狙い撃ちにした規制だという側面もある。 
注意点② 「表現内容規制」・「表現内容中立規制」という学説上の用語や議論枠組みに,判例は必ずしも依拠していないことにも注意 
表現内容規制・表現内容中立規制という区分論は,学説が提唱しているものであり,法令用語ではなく,判例がこうした用語を用いることはない。また,これらの用語は,学説上の用語であることもあり,論者(学者)によってその定義が著しく異なっている部分もある。 
⇒そのため,この言葉を出すだけでは,実は読み手に共通理解があることを前提にできない部分がある。こうした言葉の定義をきちんとしないまま,“この判例の事案は内容規制と 内容中立規制のどちらに分類されるのか”という言葉だけを出して論じても,ほとんど意味のない作業になる。また,たとえばある事例問題などで,その事例に関連する判例を挙げることなく,また判例に対する補充や批判という文脈なしに,いきなり“この規制は内容規制だから厳格な基準が必要だ”という論述をしても,実は何も語っていないに等しい。 さらには読み手には,“この人は判例を知らない”と読まれて(低評価の対象になって)も致し方ない。また,内容規制とは何かについて,書き手とは別の見解に立っている読み手には, “内容規制とはこういうものでない”と思われてしまう恐れもあり,そう思われたらそれでおしまいである(圧倒的多数の書き手が内容中立規制とは何かについて誤解しているのが実情のように見受けられる)。 
⇒こうした諸点にかんがみ,あえて私見をいえば,そもそもこうした内容規制・内容中立規制という学説上 の言葉を出すことが混乱の原因になるため,こうした用語法は避けるべきではないかと考えている。他方で,それでは判例のみに依拠すればそれで十分か,といわれると,上記の通り,判例は,学説上の表現内容規制・内容中立規制という区分論には明示的に依拠せず,他方で「表現そのもの」と「手段」という区別自体は示しているが,それぞれの内容について,必ずしも詳細・明瞭な説明・理由づけを語っておらず, これを引き写すだけでも,やはり中身のある議論にはならない部分もある。そこで,判例法理を(批判的に)補充するという文脈で,次の*若干の応用で示しているような形で,学説上の内容規制・内容中立規制という用語ではなく,この区分論の背後にある基本的な発想を生かしながら,具体的にどのくらい表現の自由へのダメージがあるのかを,個別的・具体的に考察する,という方法が有用かと思われる。
若干の応用―内容規制と内容中立規制の区別論と違憲審査基準 
 それでは,具体的にどのように考えればよいのか。そもそも学説において,表現内容規制の合憲性が,表現内容中立規制の合憲性よりも厳しい基準で判断されなければならない理由は,通説的見解によると,次の三点にある。すなわち,内容規制は,①思想の自由市場をゆがめる,②「誤った思想の抑止」という許されない動機に基づく規制である,③「伝達効果」(メッセージの内容が受け手に起こす反応)による規制である。そうすると,逆に内容中立規制であっても,これら①~③の趣旨があてはまると言えるような場合に は,やはり厳格な審査を行うべきだということになる。 
 たとえば,「駅前でポスターを貼ってはならない」という(内容中立)規制は,①もし,その駅前以外の他の場所でポスターを貼ることができる場合,つまり代替手段・別のチャンネルを通じて同じ表現内容が自由市場に参加できる場合には,思想の自由市場がゆがめられているわけではないため,裁判所がその合憲性を厳しく審査する必要はないともいえる。しかし他方,もし,その地域には,公営の掲示場のようなポスタ ーを張れる場所が全く存在しないという状況であれば,表現の自由へのダメージが大きいともいえるため, 厳格な審査が必要だと考えることもできる。
 ちなみに,上述の立川反戦ビラ事件は,②許されない動機(自衛隊に反対する思想だけを国が取り締まる)が背後にあることが推測できる事案であり,緩やかな審査を行うべきではないと主張することもできよう (ただし,どういう動機があるのかを認定することは,実際上は必ずしも容易ではないが)。 
 また,③は,たとえば「煽動」の結果,犯罪を行う者が出たとしても,それは煽られて犯罪行為に及んだ者の側の責任の問題であって,煽った表現者のほうを規制するのは筋が違い,表現行為の規制は極めて例外的な場合(表現行為によって犯罪が発生する「明白かつ現在の危険」が生じるような場合)に限られる,という話である。 

 いずれにしても,内容規制か内容中立規制かで,単純に機械的に基準の厳しさを振り分けるのではなく, 仮にこの二分論を用いる場合でも,その言葉を挙げるだけでなく(それでは何も伝わらない。上記*注意点 ②),必ずその理由づけ(上記①~③)を挙げ,問題となった規制が表現の自由にどれだけ大きなダメージを与えているのかという点を,個別的・具体的に論じることが重要であるこれにつき,宍戸常寿『憲法 解釈論の応用と展開』(日本評論社,第 2 版,2014 年)135 頁以下を参照のこと。。 
7.「合理的関連性」の基準⇒「合理性」の審査に類似 
・学説:①表現の自由の合憲性を審査する際の最も緩やかな基準は,「合理的関連性」のテストである。 これは,規制目的(公共の福祉)と規制手段との間に観念的・抽象的な関連性があれば(=目的と手段が無関係でなければ)合憲である,という極めて緩やかな基準である。
    ②最高裁は,公務員の政治的表現行為を規制する法律の合憲性を,この基準を使って審査し(猿払事件:最大判昭和 46・11・6。百選 12 事件),その後,この基準は,多くの表現の自由の判例で用いられているといわれる。 
    ③また,上記6.の*関連判例(1)(2)で示された,「必要かつ合理的」という最高裁が示した基準も,内容的には,この合理的関連性の基準とほぼ変わらない緩やかな基準だと,学説では評価されており判例は「必要性」という語は用いているものの,より制限的でない他の手段(LRA)があるかどうかを 踏み込んで審査していないため),学説によって厳しく批判されている。
*注意点―判例と学説における「合理(的関連)性」・「必要性(LRA)」の審査の位置づけの相違 
⇒判例は,ある国の行為が憲法上の権利を制約する場合に,それが憲法上許されるかどうかを判断する際,「公共の福祉に合致する目的のため必要かつ合理的(+相当)な規制か」という基準一本で審査する。つまり判例は,①必要性(LRA。ほか の穏当な手段で目的は十分に達成できるか)と,②合理性(合理的関連性。目的にとって意味のある手段を採用しているか)の両方(ないし,あわせて③相当性(得られる利益と失われる利益のバランス))を,すべての事件で審査する。そして事件の性質によって,その①必要性や②合理性(③相当性)を,踏み込んで審査したり,緩やかに審査したりする。三段階審査の母国のドイツ型の比例原則に近いやり方である。 
⇒これに対し,アメリカ型の二重の基準論をベースにする学説は,緩やかな基準を採用するときは②合理性(合理的関連性)のみを審査し,もう少し踏み込んで審査するときには,①必要性(LRA) まで審査する,という形で,①と②を選択的・択一的にとらえている。判例と学説で,立論の仕方が異なる部分なので,十分に注意されたい特に大学の模擬試験等をやると非常に多く目にする,学生の間でなぜか流通している「模範答案」(自称)は,基本的に, おそらく特に司法試験受験生などの間で,旧司法試験の時代のアメリカ型・学説型の論証作法の影響が残ってい るためか,判例のやり方は無視し,他方でドイツ型の三段階審査(比例原則)でもなく,上記のアメリカ型の二重の基準論的なやり方になっているものが多いように見受けられる。それはそれで一つの決断としてはありうる が,その際に判例を明示的に挙げて補充・批判する等の作業なく,いきなりこうした学説上の基準に依拠すると, 「この人は判例を知らない」と評価されて加点されないことがあることには注意(定期試験でも国家試験でも)。 。 
⇒ちなみに上記の「猿払基準」は,目的の正当性,手段の合理的関連性,手段の相当性を審査し, 必要性に明示的に言及しない,という枠組みである。これは,他の多くの判例法理とは異なった基準であり,ドイツ型の学説にもアメリカ型の学説にも見られない特異な審査方法である。
8.補論―「公共の福祉」に関する判例の展開と学説史
・視点:①憲法は,国家の組織・作用を定める基本法だといわれている。すなわち,日本国憲法は,誰が国家権力を担当するのかという,国家機関の仕組みを定め(国会・内閣・裁判所・地方公共団体(・天皇)等),それらの国家機関が,具体的にどのような権限を持っているのか(立法・司法・行政・地方自治権(・国事行為)等。憲法第 1 章,第 4 章以下。積極的授権規範),また,どのような組織・作用を持ってはいけないのか(「軍」を禁止する憲法第 2 章や,「人権」の侵害禁止を定める第 3 章 等々。消極的授権規範)を定めるものである。
    ②特に,日本国憲法は,国民の基本的人権というものを,「侵すことのできない永久の権利」(11 条, 97 条)だと述べている。つまり,国会・内閣・裁判所を含めた,すべての国家権力は,その権力を行使するにあたり,国民の基本的人権を侵害しないようにしなければならない。 
    ③しかし他方,日本国憲法は,人権の「濫用」を禁止し,「公共の福祉」に反しない限りで保障されるとも定めている(憲法 12 条後段,憲法 13 条後段。さらに,職業の自由・財産権については,もう 一度重ねて,人権の保障が「公共の福祉」の範囲内だということが書かれている。憲法 22 条 1 項, 29 条 2 項)。これはつまり,人権の行使が「公共の福祉」に反する場合には,その人権を国が制限することができるという考えが示されているともいえる。 
    ④たとえば,どんなに表現の自由(憲法 21 条 1 項)が重要だといっても,たしかにこれを無制限のものだと考えることはできない。表現活動によって重大な害悪がもたらされることもある(大声での夜中の演説,他人の家に政治ビラを張る,など)。このような場合,たとえば国会や地方自治体は, 法律や条例で,こうした表現活動を規制する条文を定めたり,その法律や条例に違反した人を行政・ 司法が取り締まったりすることは許されると考えられている。 
    ⑤このように,保障する自由・権利(=人権)には―若干の例外(検閲(21 条 2 項),拷問(36 条)) を除き―常に限界があると考えられている。「無制限の権利」・「絶対の権利」というものはなく, 人権の制約が必要な場合もあると考えられている。それでは具体的にどのような場合に,人権の行使は「公共の福祉」に反するとして,制約を受けるのか。憲法自体は,それ以上具体的なことを述 べていないため,この点をどう考えるべきかが,重大な問題として,判例・学説で今日に至るまで論争の対象となっている。 
(1)戦後初期判例―観念的・抽象的な「公共の福祉」論 
・例:犯罪の煽動と表現の自由(最大判昭和 24・5・18,百選 48 事件), 加持祈祷事件(最大判昭和 38・5・15,百選 38 事件),等。 
⇒「公共の福祉」の内容を特に示さず,“この事件では「公共の福祉」に反したことを国民が行った以上,これを取り締まっても憲法には違反しない”と,ごく簡単に結論づけるものが多かった 
⇒さらに言うと,この時代の判例は,①問題となった個人の行為がそもそも憲法で保障されていない,という話をしているのか,②それとも,問題となった個人の行為は憲法で保障されているが,「公共の福祉」 に反するため,その憲法で保障された行為を制限しても憲法違反ではない,という話をしているのかが, 明確に区別されていないのも特徴的である。①は,最近流行りの「三段階審査」に照らせば「保護領域」の話であり,②は,「正当化」の話である。この時代の判例は,「公共の福祉」に反する行為は, そもそも憲法で保障されていない,というふうに読めるものが多くあり,①保護領域の話と③正当化の話 が一体的に論じられる傾向にある。 
(2)戦後初期学説
ア 一元的外在的制約説 
・結論:12 条・13 条の「公共の福祉」は,人権の外にあって,それを制約することのできる一般的な原理。22 条 29 条の「公共の福祉」には,特別な意味はない。 
・批判:この説は,「公共の福祉」の内容として「公益」・「公共の安寧秩序」というような抽象的な考えしか示しておらず,そのため,もし,その「公益」等の内容を国が法律レベルで決めてよいということにな ると,法律による人権制限が容易に肯定される恐れがあり,明治憲法の時代の「法律の留保」がつい た人権保障(人権が「法律の範囲内」で保障されると書かれていた)と変わらなくなる恐れがある。 
イ 内在・外在二元制約説 
・結論:①12 条・13 条の「公共の福祉」には,法的な意味はなく(倫理的・訓示的規定),人権制約の根拠にはならない。憲法上の権利は,権利が社会的なものであること(他人の権利等と衝突する場合もあること)に内在する制限(憲法上のそれぞれの権利自体が想定している制限)を受けるにとどまるのが原則である(人権行使が可能な範囲をあらかじめ事前に法律で決めておくことは許されない)。 
    ②ただし,経済的自由(職業の自由・財産権)は,国による政策的・積極的規制(典型例は,経済的弱者の生存権・社会権(憲法 25 条)を保護するために,経済的な強者の職業活動を制限すること)が 必要な権利であるため,憲法 22 条 1 項・29 条 2 項で改めて「公共の福祉」が,特別に書かれていると考えられる。そのため,憲法 22 条 1 項,29 条 2 項の「公共の福祉」は,経済的自由を政策的・積極的目的で制限する根拠になる(大規模なスーパーマーケットの進出を制限する営業許可制・適正配 置規制などのような事前規制,すなわち,人権(経済的自由)の行使をあらかじめ法律レベルで制限しておくことも許される)。 
   (③また,25 条の生存権のような社会権も,表現の自由や信教の自由のような「自由権」とは異なり, 国による介入を排除する権利(不作為請求権)ではなく,国が法律を制定する等して,憲法上の権利の内容を具体化する必要のある権利(作為請求権)であるため,国の法律レベルでの事前の規律 =外在的制約が許される。) 
・批判:(①自由権と社会権は必ずしも明確に区別されない場合もあるにもかかわらず,その制限を,一方は内在,他方は外在と割り切るのは妥当でない。) 
     ②「公共の福祉」の意味を,政策的・積極的な規制という意味に限定することは妥当でない。 
     ③13 条の法的な意味を否定してしまうと,「新しい人権」の法的根拠が失われる(たとえばプライバシ ーなど,憲法が制定された時点のあとに重要だと考えられるようになった権利に憲法上の保障を与える根拠として,憲法 13 条が通常用いられる。)。
ウ 一元的内在的制約説 
・結論:①公共の福祉とは,人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理である。 
    ②この意味での公共の福祉は憲法の規定に関わらず,すべての人権に論理必然的に内在している。
    ③自由権を各人に公平に保障するための制限(たとえば表現の自由が,他者のプライバシーという自 由権とぶつかった場合の,表現の自由への制限)は,必要最小限の制限が許される(自由国家的公共の福祉)。
    ④社会権を実質的に保障するために自由権を制限する場合(たとえば上記のように,経済的弱者の生存権(25 条)を保障するために,経済的強者の職業の自由(22 条 1 項)を制限する場合)には,必要な限度の規制が認められる(社会国家的公共の福祉)。 
・批判:①特に③④に関し,「必要最小限度」とか「必要な限度」という抽象的な基準で,人権の限界を判断すること,しかもそれを判例の集積に待つのは妥当ではなく,あらかじめ明確な基準を,それぞれの 権利の性質に応じて設定しておく必要があるのではないか。 
    ②もし,「人権相互の衝突」という一元的内在的制約説の主張を,文字どおりに捉えるならば,人権を 制約できる公共の福祉とは「他者の権利」だけであり,「社会的利益」は公共の福祉ではない,ということになりうる。しかし,少なくとも最高裁判所は,公共の福祉の内容を「他者の権利」には限定していない。また,最近の学説では,公共の福祉の内容として,他者の権利だけでなく,さまざまな社会的利益も含めて考える見解が有力になりつつある。また,そもそも通説的な見解自身,総 論レベルでは「人権を制約できるのは他人の人権のみ」といいつつ,各論レベルではこの見解を貫いていない(たとえば公務員の政治活動(憲法 21 条)や労働基本権(同 28 条)は,いま法律で厳 しく制限されているが,この制限を正当化する公共の福祉とは何かという点につき,通説的見解は 「憲法が公務員関係の存在と自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること」だとしている。 少なくともこれが「他者の権利」ではないことは明らかである)。「社会的利益」を理由とする人権制限をすべて目的違憲とするのでない限り,一元的内在的制約説は維持できない。
(3)「比較衡量」論の登場 
・判例:博多駅事件(最大決昭和 44・11・26,百選 73 事件)などで明示的に採用され,以降の判例でも「比較衡量」は,最高裁の基本的な頭の使い方(思考様式)の一つになっている。 
4)「違憲審査基準」論(二重の基準論)の登場 
・視点:比較衡量論では比較の基準が不明確という問題意識からアメリカ型の基準論に注目。 
(5)「三段階審査・比例原則」の登場 
・視点:日本の法制度・判例に適合する理論を求めるという観点からドイツ型の三段階審査に注目。

2021年9月18日土曜日

表現の自由《性表現・青少年保護》

 以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ(第8版)」を指す。

1.性表現 

(1)なぜ性表現は規制されるべきなのか――道徳・倫理と法 

・視点:①憲法 21 条 1 項は,「言論,出版,その他一切の表現の自由」を保障するとしている。 「一切の」表現行為が保障されるのであれば,そこにはポルノ等の性表現も含まれ, 現代の日本社会においては自由な性表現が許されると考えるべきようにも思われる。 

     ②しかし,刑法 175 条は,性表現は規制されるべきだとする(「わいせつな文書,図画,電磁的記 録に係る記録媒体その他の物を頒布し,又は公然と陳列した者は,2 年以下の懲役又は 250 万円以下の罰金若しくは科料に処し, 又は懲役及び罰金を併科する。 電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も,同様とする。」)。 

     ③それでは,刑法 175 条は表現の自由を侵害し違憲なのか,また仮に合憲だとすれば, なにゆえに性表現は規制されなければならないのか,という問題が生じ得る。 

ア 判例:健全な性道徳の維持――「チャタレイ夫人の恋人」事件(最大判昭和 32・3・13,百選 51 事件) 

・分析:この事件で最高裁判所は,性表現を規制する根拠を,「性行為の非公然性」という「性道徳」の維持に求めた。そして,これは「必要最小限の道徳」であり,法的規制の対象になるという(さらにこの「道徳」の中身は「社会の多数の人々の集合意識」ではなく,裁判官が認定すべきものである,とした)。 

・批判:学説では,この最高裁判決に批判的な論者が多くを占めているこれに関して、百選 51~53 事件の<解説>などを参照。学説状況の概観については,奥平康弘『ジャーナリズムと法』(新世社,1997 年)。詳細については,アメリカの議論状況との比較も含め,加藤隆之『性表現規制の限界』(ミネルヴ ァ書房,2008 年)を参照。批判論者いわく, 

    ①健全な性道徳というものの内容は不明確である。性表現が世にあふれることにより, 具体的に社会にどのような害悪・弊害が生じているのかは必ずしも明らかになっていない。このような曖昧な根拠に基づいて表現行為を取り締まるべきではない。 

    ②そもそも国家は道徳的・倫理的に中立であるべきであり,法を通じて特定の道徳・ 倫理思想(特に社会多数派の社会通念)をおしつけるのは,個人の自律性を無視したいらぬお節介である。法と道徳・倫理は別物である(政治哲学のリベラリズムという考え方に通じる)これに関連した次のような批判もある。“ある表現の内容が許されるべきものかどうかは,国家権力ではなく市場における市民の判断に委ねられるべきである,という考え(思想の自由市場)が,表現の自由の根底にある。裁判所という国家権力が法を通じてわいせつ物を取り締まるというやり方は,この思想の自由市場 とそぐわない。国家が表現内容の是非を判断して規制するというのは,表現の受け手である市民の自律性を無視したいらぬお節介である。”。 

 イ 学説:「見たくない人の権利」と「子供の人格権」の保護 

・視点:①以上のような批判にもかかわらず,性表現をいっさい規制してはならない,完全に自由化すべきだ,というところまで徹底する論者は,今のところ多数説にはなっていない。 

    ②もっとも,性表現に規制が必要だと主張する論者も,その規制の根拠については議論が分かれる。有力な見解の一つは,上に見た批判を踏まえ,最高裁のように「性道徳の維持」と捉えるのではなく,「見たくない人の権利」と「子供の人格権」の保護(憲法 13 条後段)という二点に求める。 

    ③すなわち,未成年者は人格の発展途上にあり,テレビや漫画などによる低俗なわいせつ表現によって,その人格の発達が妨げられてはならない,という。さらに,いかにポルノ愛好家であっても,自宅の前にわいせつなポスターが貼ってあれば嫌悪感を抱くであろうし,また,出勤や通学の際に,会社や学校の前に猥褻なポスターが貼ってあれば, やはり嫌悪感を抱く人も多いであろうと思われる。成人は,わいせつな表現によって, もはや人格を妨げられることはないが,「見たくないときには見せられない」という権利があると考えられる,というなお,最近においては,ポルノ規制の根拠として,いわゆる「フェミニズム」ないし「性差別」を持ち出す論者もいる。すなわち,ポルノは男性の性的支配を是認・助長し,そういうものとしてそれは「女性の人権」を侵 害するものであり,それ故に性表現は法的に規制されるべきである,という。もっとも,はたして女性は,国が ポルノ規制をして「守ってあげるべき弱い存在」といえるのか,むしろそういう理由で性表現を規制するほうが 性差別を助長するのではないか,という意見もあり,議論状況は必ずしも単純ではない。

 (2)規制されるべき性表現とはいったい何か―「わいせつ」の概念と「比較衡量」 

ア 判例

(ア)わいせつの 3 要件―「チャタレイ夫人の恋人」事件百選 53 事件

(イ)「全体的考察方法」―「悪徳の榮え」事件(最大判昭和 44・10・15)百選 54 事件

(ウ)わいせつ概念の再構成――「四畳半襖の下張」事件(最判昭和 55・11・28)百選 55 事件 

イ 学説 

・視点:上で見た学説のように,性表現の規制の根拠を「見たくない人の権利」と「子供の人格権」 に求める場合,これらを侵害しない限りは,性表現を規制することは許されないことになる。つまり,ある表現が「わいせつ」物(刑法 175 条)として規制されるべきものかどう かは, 

 (ⅰ)性表現の自由(憲法 21 条 1 項)と, 

 (ⅱ)「見たくない人の権利」・「子供の人格権」(憲法 13 条) 

 との「比較衡量」によって決まる。どちらが優位するかは,ケース・バイ・ケースである。 

・帰結:①何が「わいせつ」物かは,表現物自体において決められるのではなく,状況との関連の なかで決められる。たとえば,本屋で適法に売られている週刊誌のヌードグラビアを切り取って中学校の校門近くに掲示すれば,わいせつ物陳列罪に問われることになりうる。 

     ②上の(ⅱ)の権利を侵害しない限り,内容的にいかに露骨な描写のものであっても,これを規制することはできない。この場合,性表現を規制する理由がないからである(この観点からすると,現在行なわれている成人指定映画の上映に関する規制やアダルト・ビデオに対する規制は厳格すぎる,ということになりうる。見たくない大人や子供に見せないためには,年齢確認等,表現の時・場所・方法を規制すれば十分だからである)。 

     ③(ⅱ)の権利が害された場合には,規制が許される(「わいせつ」かどうかを判断する基準として,性器等の露出の有無を重視しているかのような下級審裁判例もあったが,(ⅱ)の権利が害される場合には,たとえ下着を着用していても規制の対象となる場合がありうることになる)

(3)ピカソや歌麿のポルノ芸術も規制されるべきなのか――芸術と法

・視点:性表現・ポルノ作品といっても,見るにたえない低俗なものばかりではない。中には 芸術的価値の高いポルノ作品もある(たとえば,ピカソやクリムトのポルノは有名であるが,そのほかにもロダンやミレー,レンブラント,ルーベンスに至るまで,実に多くの画家たちがポルノ芸術を残している。日本においても,歌麿に 代表される種々の浮世絵は,性表現を含むものが多々ある。また,格調高い文藝作品に性表現が含まれていることは,しばしば見られる現象である)。このような芸術作品も,刑法 175 条のいう「わいせつ」として規制の対象になるのか。 

・判例:①芸術性とわいせつ性は全く別の問題であり,芸術的側面において優れた作品でも, わいせつ性をもっていると評価され,法的な規制を受けることもありうる(「チャタレイ夫人」事件)。 

    ②もちろん,芸術性・思想性が,性的描写による性的刺激を緩和させ,法的規制の必要性を失わせることはありうる。しかし,その程度までわいせつ性が解消されない限り,芸術作品だからといって直ちに法的規制を免れるということにはならない(「悪徳の榮え」事件)。 

*「定義づけ衡量」という考え方について

①かつて性表現は,名誉棄損的表現や,後に扱う犯罪の煽動と並んで,「価値の低い表現」として, 表現の自由(憲法 21 条 1 項)の保護を一切受けないと考えられてきた。もっとも,最近は,性表現 であってもやはり表現の自由の保障は受けるべきだと考えられている。もちろん,表現の自由も絶対無制約ではなく,「公共の福祉」(12 条,13 条)による制約は受ける。性表現を規制する刑法 175 条は,そういう「公共の福祉」を守っているのならば違憲とはいえない。 

②問題は,刑法 175 条が守ろうとしている「公共の福祉」(刑法でいえば「保護法益」)とは何なのかという点である。判例は「性道徳の維持」だとしているが,これは表現の自由を制約する理由としてあいまいすぎるという批判が学説では多い。この学説の批判を徹底すると,刑法 175 条は表 現の自由を侵害する違憲の法律だということになる。 

③もっとも,そこまで徹底する論者は多くなく,有力な見解の一つは,刑法 175 条は子どもの人格権・見たくない人の権利(憲法 13 条)を守っている限りでは合憲だとする。他方,その意味で,こうした限定をつけていない刑法 175 条は,規制対象が広すぎるため違憲だ,という主張もありうる。あるいは,仮に刑法 175 条の「わいせつ」という文言自体は,こうした子供の人格権や見たくない人の権利を保護する規定なのだと狭い意味で解釈で きる限りで合憲だとしても,子どもの人格権や見たくない人の権利を害していない性表現に対 して刑法 175 条を適用すると,それはその性表現を行った者の表現の自由(憲法 21 条 1 項)を侵害することになる。

 ④そして,このように,刑法 175 条が規制の対象にしている「わいせつ物」とは,たとえば“子どもの人格権や見たくない人の権利を害する性表現だ”というふうに解釈し,性表現を自由にできる場合(表現の自由の保障を受ける性表現)と,そうでない場合(子ども・見たくない人の権利を傷つけるので規制の対象になる性表現)を「あらかじめ」区別しようとする考え方を,「定義づけ衡量」ということもあ る。何が取り締まりの対象となる「わいせつ物」(刑法 175 条)かを定義する(=刑法でいえば「構成要件該当性」を判断する)際に,表現の自由(憲法 21 条)と子どもの人格権・見たくない人の権利(同 13 条)との比較衡量を「あらかじめ」行い,「わいせつ」の範囲を限定しておくという考えである。あるいは“「芸術表現」は「わいせつ物」(刑法 175 条)ではない”というかたちで,表現の自由が及ぶ範囲をあらかじめ明確にしておく,という類型化を行うのが定義づけ衡量といわれる。こういう類型化を(狭く)行う結果,本来,取り締まってもよいような性表現も,規制の対象から外れることもありうるという問題もあるが,しかし類型化をした方が,どういう表現が取り締まりの対象になるのかが明確になり,表現の自由への「萎縮効果」(本来許される表現を処罰を恐れて差し控える効果)が少なくなるといわれる。 

⑤ちなみに,こうした「限定」・「類型化」の例として,憲法上の保護を受けない「ハードコアポルノ」と,それ以外の表現物とを区別する,という考え方もある(最判昭和 58・3・8 の伊藤正己裁判官の補足意見)。

⑥なお,判例のように,性表現の規制の根拠を「性道徳の維持」に求める場合,「わいせつ」物頒布罪(刑法 175 条)で処罰されるどうかは,個々の事案での表現の自由と性道徳の維持との比較衡量で決まることになろうなお,その際の法律構成として,仮に刑法の枠内で論じるとすれば,①そもそもわいせつにあたるか否かを判断する際に,上記の比較衡量を行うか(構成要件該当性),②あるいは,わいせつにはあたるとしても,憲法上の表現の自由の行使として正当化されると構成するか(違法性阻却事由),多様な構成がありうる。。この衡量の際,悪徳の栄え事件判決によれば, 「文書全体」から考えて芸術的価値がある場合には「わいせつ」にあたらないと判断される可能性も示唆されていた。そして実際,最近の事件で最高裁判所は,写真家メイプルソープの写真集(男性器を映した白黒写真が含まれていた)について,芸術的評価が高いこと,問題の性表現が写真集 全体:386 頁のうち 19 頁に過ぎないこと,等を理由に,輸入禁止の対象となる「風俗を害すべ き書籍,図画」(関税定率法 21 条 3 項)にはあたらないと判断している。第二次メイプルソープ事件(最 判平成 20・2・19,百選 53 事件の解説)。 

2.青少年の保護――「有害図書」の販売規制 

・視点:1970 年代,いわゆる「悪書」追放運動というものが,PTAを中心としてさかんに行なわれ,これが全国に広がった。この運動は,暴力表現や性表現などを含む漫画や雑誌など の「有害」図書から子供を守ろうとするものである。この運動を受け,各自治体は,こうした図書を青少年の目に触れさせないように販売規制をするなどして対応した(青少年保護育成条例の制定など)。これに対し,実際に規制を受けた出版社などが,表現の自由の侵害を裁判で主張するという事件がいくつか起こることとなった。なお,この規制の対象となる「有害図書」は,青少年の保護にとってマイナスとなる表現物を意味し,上で見た, 刑法 175 条が禁止する「わいせつ」文書よりも広い概念である(すなわち,「わいせつ」に至らない性表現も規制の対象となりうるし,暴力表現や残忍な表現なども「有害図書」に含まれ,規制の対象となる)。 

・判例:岐阜県青少年保護育成条例事件(最判平成元・9・19)百選 56 事件

・分析:①この事件で最高裁は,「有害図書」が性的逸脱行為などにつながることは「社会共通の認識」であるとした。しかし学説では,両者の関係は証明されておらず,表現の自由を規制する理由がはっきりしない有害図書規制という手段と青少年の保護という目的との間に合理的関連性がない,と主張する見解が有力である。 

    ②さらに他方で,インターネットで有害情報が多く入手できる現状からすると,未成年保護という規制の目的にとって,自動販売機での販売規制という手段はむしろ不十分(過小包摂)だという指摘もある(①②の指摘は,特に表現の自由への制約は厳格に審査すべきだという立場からなされる)。 

    ③また,この判決は,青少年というものは判断能力に欠けるところがあり,自己決定能力 が未熟であるとみなしているようにも見える。学説では,このような「パターナリズム(=父親が,子供のためという名目で,子供の同意を取りつけることなく,子供の運命・自由を左右すること。それと同じようなかたちで,国家権力が本人すべてを代位して,本人に対する配慮を行なう仕組み。つまり「本人を保護する」という目的で,本人の権利を制限すること)に対して批判的な論者が多い。すなわち,「児童の権利条約」にも示されている通り,近年では,こうした青少年の一般的未熟性を前提とせず,むしろ子供の自己決定能力の可能性を前提としたうえで,それを育成・増進させるべきだ,という考えかたが有力になりつつある。

    ④この判決は,事件自体は地味であり,また,判決文そのものは結論しか語っていないため,この判決文の表面を読むだけでは,あまり有益な示唆は得られない。そのため,この判決そのものを覚えてもあまり意味はないが,実はこの事件には,憲法上の人権問題 を考える上での大事な論点が,ほぼ網羅されているといってよいほど,重要な憲法問題が多く伏在している点にも注目のこと。

*類似の事件での事案の区別の可能性――DVD の自販機と監視カメラ 

 DVD の自動販売機に監視カメラが設置されており,客が 18 歳以上だと監視員が判断した場合には遠隔操作で販売機に電源を入れ,購入を許すというシステムがある。これは岐阜県の事案とは異なり,対面販売と変わらないため,こうした自動販売機での DVD の販売まで規制の対象に含め,青少年保護育成条例を適用すること表現の自由の侵害なのではないか,という点が問題となった事件がある。しかし最高裁は,このモニター画面では客の正確な年齢は確認できないこと,監視員が人目にさらされていないため販売したいと思うあまり年齢確認を怠る可能性が高いこと,などを理由に合憲判断を示している(最判平成 21・3・9)。 

*児童ポルノをめぐる問題 

①アメリカでは,年間二十万人の子供が行方不明になっており,そのうちの相当数が児童ポルノ産業の犠牲になっているといわれている。 

②児童を被写体とした「児童ポルノ」については,これまで述べてきた一般のポルノとは区別されなければならないといわれている。児童ポルノは,成人映画として上映することは許されず,その製造・販売・インターネットへのアップロードはもちろん,購入・アクセス・所持自体を処罰することも可能だとする見解が有力である(アメリカではそのような規制を設ける州が少なくない)。その理由として,児童ポルノについては,作者・業者の表現の自由,愛好家の「見る権利」よりも,被写体となる児童の人権のほうがはるかに重要(児童ポルノ産業自体を根絶させる必要)という点があげられる。 

③日本においても,児童ポルノ処罰法が成立し,この「児童ポルノ」にあたるかどうかは,上で見た「わいせつ」の場合とは異なり,「いたずらに」性欲を刺激させなくても処罰の対象になるとされている(京都地判平成 12・7・17)。なお,2015 年に,児童ポルノの単純所持を処罰する方向で法改正されたが,処罰の対象となるのは,「自己の性的好奇心を満たすための所持」 に限定されているそのため,例えば子どもと水浴びをしている写真を親が持っているというだけでは,通常は処罰の対象にはならないと考えられる。児童ポルノの憲法問題については,概説書として,松井茂記『マス・メディア法入門』(日 本評論社,2013 年)184 頁,同『インターネットの憲法学』(岩波書店,2014 年)156 頁など。 

表現の自由《報道の自由・取材の自由》

 以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ(第8版)」を指す。

1.素材となる事件――外務省秘密電文漏洩事件:西山記者事件(最 決 昭 和 5 3・ 5・ 3 1,百選 75 事 件 ) 

(1)事件のあらまし ⇒百選 75 事件の<事実の概要>を参照 

(2)当事者の主張 

ア 国(検察)の主張 

 ・国家秘密を守ることは重要なため,これを聞き出そうとした者は誰でも犯罪になる(「秘密漏示そそのかし罪」(国 家公務員法 111 条・1 09 条 12 号 ・100 条 1 項)。ちなみに地方公務員は,地方公務員法 62 条・60 条 2 号・3 4 条 1 項 2 項))。新聞記者も例外ではない。 

イ 記者(被告人・西山氏)の主張 

・新聞記者には「表現の自由」(憲法 21 条 1 項)の内容として「取材の自由」が認められている。新聞記者が国家秘密を聞き出すことは,憲法で認められている取材の自由の行使であり,記者としての当然の仕事(正当業務行為。刑法 35 条)であるから,犯罪(「秘密漏示そそのかし罪」)にはならないはずである。


2.考えてみよう 

(1)基本的知識の確認――報道の自由・取材の自由の意義 :<若干の復習と補足>

名誉・プライバシー侵害を復習のこと(後述の博多駅事件決定が述べたように,国民主権・民主主義 にとって報道・取材の自由は大事)。 

・判例:①報道の自由…「憲法 21 条 1 項の保障の下にある」 

         ②取材の自由…「憲法 21 条の精神に照らし,十分に尊重に値する」 

・分析:取材の自由は憲法上保障されているのかどうか,判例の立場は必ずしも明確ではないが,おそらく判例は,“取材は報道のために必要であるため,取材の自由も憲法上保障されるが,取材は「表現そのもの」ではなく,その前提・「手段」の一つにとどまるため,報道の自由よりも保障の程度が低い,そのため,その取材の自由への制約が憲法違反か否かを裁判所が厳格に審査する必要はない”という立場 に立っていると考えられる(後述のレペタ事件も参照)。

 かつて最高裁は,後述の石井記者事件(最大判昭和 27・8・6)で,取材の自由について,憲法 21 条の保障は「公共の福祉に反しない限り,いいたいことはいわせなければならないということであ」り,「未だいいたいことの内 容も定まらず,これからその内容を作り出すための取材」活動が制限されるのは当然,という言い方をしており, 取材の自由を憲法で保障することについて極めて消極的であった。これと比較すると,上述の博多駅事件判決の 言い回しは,一歩前進しているともいえる。だがこの事件で最高裁が,「尊重に値する」という微妙な言い回しを し,「保障される」と明言しなかったのは,石井記者事件判決の考え方の影響が残っていることの現れともいえる。

・学説:(上記の判例の言い回しを批判して)報道は,取材・編集・発表という一連の行為により成立するもの であり,取材は報道にとって不可欠の前提をなすものであるから,取材の自由も憲法 21 条によって直接 「保障される」というべきである,と主張するものが多い。 

(2)事件の解決のしかた 

ア 最高裁判所はどう判断したか百選 75 事件<決定要旨>を参照 

イ 理解のポイント 

・視点:①この事件では,外務省の事務官から外交機密を聞き出した新聞記者に対し,「秘密 漏示そそのかし罪」を適用し,刑罰を科することは,記者の取材の自由・表現の 自由(憲法 2 1 条1 項)を侵害することになるのではないか,という点が問題となった。 

    ②つまりこの事件には,憲法の目から見た場合,A記者の取材の自由(憲法 2 1 条)の 保護と B 国家秘密の保護(記者を 有罪 と して刑罰を科す るこ と は, 国家 秘 密の保護に とっ てプラスになる) のどちらを優先すべきか,という問題が含まれているといえる。 

     ③この問題の解決のしかたとして,論理的には,次の三つの可能性がある。

 (ⅰ)常に B 国家秘密の保護が優位する(国(検察)の主張), 

 (ⅱ)常に A 取材の自由が優位する(記者の主張), 

 (ⅲ)ケース・バイ・ケースである, 

    ④最高裁は,基本的に法律(刑法)解釈論を中心に検討しており,純粋な憲法論を正面から論じているわけではないが,あえて憲法の目から見ると,おそらく(ⅲ)の立場だと考えることはできる。というのは,最高裁によれば,A 取材の自由と B 国家秘密のどちらが優位するかは,一定の条件(( ア ) 報 道 目 的 ,( イ ) 取 材 の 手 段 ・ 態 様 の 相 当 性 )が満たされるかどうか,という点に左右されるからである。

    ⑤この事件では,条件(イ)を満たさないため,記者の行為は違法・有罪と判断されたと読むこともできる。しかし,もし記者が肉体関係を利用せずに常識的な範囲内での取材をしていたとすれば,国家秘密を聞き出したとしても無罪になる可能性が――少なくとも理論上は――ある。

 なお,純粋に憲法の目から見た場合,このような形で,取材のやりかた(手段・方法)によって結論が変わるのはおかしいのではないか,という批判もあり得る。つまり,取材の自由と国家秘密のどちらが優位するのかは, A 記者に刑罰を科すことによって生じる取材の自由・表現の自由へのダメージと,B 問題となった国家秘密の重要性のどちらが大きいのかによって決めるべきであり,取材のやりかた(手段・方法)が妥当かどうかは,憲法 論としては関係のない事情なのではないか,という批判もあり得る。この点は刑法を一通り学んだあとで戻ってくると,より理解が深まる(はず)。刑法上のキーワードだけ述べておくと,最高裁は基本的に,犯罪行為に違法性があるかどうかを判断する際,こうした行為者の行為・手段の反倫理性も考慮に入れて判断する立場にある。 刑法では行為無価値論といわれる。これに対し,A と Bを純粋に比較衡量する立場のことを結果無価値論という。 憲法と刑法との関係を分析した専門書として,上田正基『その行為,本当に処罰しますか』(弘文堂,2016 年)。 

ちなみに,この西山記者事件での(ア)目的の正当性や(イ)手段の相当性という判断枠組みは,刑法 35 条の解釈論として判例がしばしば用いるものである。すなわち被告人の行為が,形式的には犯罪を定める条文にあたる場合でも(国家公務員法が禁止する「秘密」の「そそのかし」にあたる。構成要件該当性。百選の判旨のⅠと Ⅱ),なお法令等に基づく正当な行為(刑法 35 条)として,違法性がなくなり犯罪が不成立になるかどうか(違法性阻却事由。百選の判旨のⅢ),という問題を判断する際に,判例がしばしば用いるのが,この(ア)目的の正 当性や(イ)手段の相当性という判断枠組みである。これに対し,目的・手段審査は,こうした 憲法上の権利(取材の自由)を行使している国民の行為ではなく,憲法上の権利の制約をしている国家の行為が 憲法上許されるかどうかを判断する際の枠組みである。両者を混同しないよう注意していただきたい。 他方で実は,(話をややこしくして申し訳ないのだが)この刑法の思考を,憲法の世界に応用しているのが,「三段階審査・比例原則」である。つまり,刑法の世界では,①まず,「刑法の条文が禁止してい ることを個人がやった」ことを確認する作業があり,これを「構成要件該当性」と呼ぶが,これを憲法の世界に 応用しているのが,「保護範囲」への「介入」である(「基本権構成要件」と呼ぶこともある)。すなわち,まず「憲法の条文が禁止していること(保護範囲)を国がやった(介入)をこと」を確認する必要がある。そして,刑法 の世界では,次に,仮に個人の行為が形式的は条文にあたるとしても,なお「正当な行為」として,違法性がな くなる場合があり(刑法 35 条や,正当防衛・緊急避難など),これを「違法性阻却事由」ないし「正当化事由」 という。この点を判断する際には,「目的・手段」審査が行われる。これを憲法の世界に応用したのが,「国の行為が憲法上の権利を制約しているとしても,なお「公共の福祉」のための制約として「正当化」される場合があ り,どのような場合に国の行為が合憲になるのかは,国の行為の「目的・手段」を審査する,という思考である。 この点に関する文献の紹介や,こういう刑法からの類推が妥当かどうかという問題なども含めて,本格的な研究 論文としては,小島慎司「憲法上の権利の防御権的構成について」上智法学論集 62 巻 3・4 号(2019 年)253 頁。

* 補足:特定秘密保護法との関係 

 最近成立した「特定秘密保護法」も,この「秘密漏示そそのかし罪」と同様の規定を置いている(同法 25 条・23 条 1 項)。そして,ある情報を「特定秘密」に指定する場合等には,①「国民の知る権利の保障に資 する報道又は取材の自由に十分配慮しなければならない」と定め(同法 22 条 1 項),②「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については,専ら公益を図る目的を有し,かつ,法令違反または著しく不当な方 法によるものと認められない限りは,これを正当な業務による行為とするものとする」と定めている。これ は,先ほどの西山記者事件の最高裁の判断を念頭に置いたものである。 

 なお,特定秘密保護法の適用の対象となる秘密とは,「国の存立にかかわる外部からの侵略等に対して国 家及び国民の安全を保障する」という目的のために秘密にする必要のある外交等の情報である。これに対し, 西山記者事件で問題になった「秘密漏示そそのかし罪」は,こうした特定秘密以外の秘密一般について適用される。一方で,こうした特定秘密は,国民の知る権利にとって重要な情報であるため,これを聞き出そうとした記者を有罪にできるかどうかを判断する際には,西山記者事件よりも厳しい基準で(つまり記者等を有罪にしない方向で)判断すべきだという意見もある。他方で,まさに秘密にする必要が高い情報であるからこそ,むしろこれを聞き出そうとした記者については,西山記者事件の場合よりも緩やかな基準で有罪にできる(つまり記者等が有罪になりやすくなる),という考え方もありうる。

3.その他の重要最高裁判例 

(1)公正な裁判の実現の要請(37 条)との衝突①―取材テープの差押え・提出命令 

・問題:①テレビ局などが報道のために撮影したビデオ・フィルムが,犯罪捜査や,それに続 く裁判における証拠調べのために差押え・押収されることがある。事件の現場など が撮影されていた場合,このようなフィルムが事件の真相解明にとって必要である ことは否定できない(「 真実発見 」,「 公正な裁判 」 の要請 。憲法 32条 ,37条 )。 

    ②しかし他方,テレビ局としては,このビデオ・フィルムは報道目的のためにのみ収集したものであるから,これを他の目的に流用することはできないと主張している。 すなわち,こうしたビデオ・フィルム等を,報道以外の他の目的に流用することは, 報道のための取材に協力した人々の信頼を裏切ることになり,将来の取材活動にと っても不利益になる(報道 ・ 取材の自 由 。 憲法 2 1 条 1 項 )。

    ③それでは,「公正な裁判」と「取材の自由」のどちらを優先させるべきか。 

ア 裁判所による取材フィルムの提出命令:博多駅事件(最 大 決 昭 和 4 4・ 11・ 2 6,百選 73 事件) 

イ 検察官によるマザーテープの差押え:日本テレビ事件(最 決 平 成 元 ・ 1・ 3 0) 

1988 年秋,国民の注目を引いたリクルート疑惑事件に関連して,衆議院の楢崎弥之助議員が,自分に対する贈 賄の容疑者である M を自分の部屋に招いて面談し,その模様の全貌を密かに 2 度にわたって日本テレビのカメラに収録させた。そして楢崎氏は,M を贈賄の容疑者として刑事告発をした。そこで検察は,M に関する贈賄事件 を取り調べる必要から,日本テレビが保管するビデオテープ 4 本を差押えた。これに対し日本テレビは,この差押えは報道・取材の自由を侵害すると主張。最高裁は次のように述べ,日本テレビの側の負けと判断。①取材の 自 由は憲法上尊重に値するが,適正迅速な捜査のために一定の制約を受ける。②この事件におけるテープは証拠上きわめて重要で,事件の全容解明のためには不可欠といえる。③他方,このテープは,すでに編集を終え,放送済みであるから,これを差し押さえたからといって放送に支障をきたすことはない。さらに,この事件では, 取材源である楢崎氏自身がこのテープを重要証拠としてあげており,テープの差押えによって取材協力者との信頼関係に影響が出るという事情はない。

 ・分析:最高裁は,博多駅事件と同様の頭の使い方(判断枠組み)でこの事件も処理した。しかし学説では,①裁判所(公正な裁判の担い手)の提出命令と検察官(裁判の一 方当事者)の押収 とを同列に論じるべきではない,②取材の自由と対立している「公正な裁判の実現」 (博多駅事件)と「捜査の必要性」(日本テレビ事件)とでは,その重要度が違うはずだ,と の主張がなされている。

ウ 司法警察員によるマザーテープの差押え:TBS 事件(最 決 平 成 2・ 7・ 9,百選 74 事件 ) 

 ・分析:この事件でも最高裁は,博多駅事件の判断枠組みを維持した。しかし学説では,上述の②の点に加え,裁判所(および検察官 :裁判の主 体)と司法警察員(たんなる捜 査の担い手) とを同列に論じるべきではない,との主張がなされている。 

 犯罪事件の証拠集めは,①まず警察が現場の検証などを通じて,関係するものを集められるだけ集め(TBS 事件はこの場面),それを検察に送り,②その中から検察が,裁判に必要なものを取捨選択し,不足分があれば自分 で捜索・押収などして証拠を集め(日本テレビ事件はこの場面),裁判で提出し,被告人の有罪を立証しようとす る。③そして裁判になり,検察と被告人(弁護人)との主張・立証の争いの中で,それぞれが提出した証拠だけ では結論が出しにくい場合などに,裁判所が,一定の証拠を提出するよう命令することがある(博多駅事件はこの場面に近いが,厳密には刑事裁判にすべきか否かを判断する付審判請求手続)。①・②は「捜査の必要」のため 押収であり,③は「公正な裁判」のための提出命令である。収集される際の手続きの慎重さは,①<②<③と なる。そのため,①・②の場面で,取材テープの押収を広く認めるということになると,取材の自由へのダメー ジが相当に大きくなるのではないか,という問題があるとして,学説上,批判されているわけである。 

 もっとも,③博多駅事件は,有罪・無罪を決める刑事裁判そのものではなく,起訴する必要があるかどうかを 判断する不審判請求の場面であり,「捜査の必要」も考慮される場面であり,①②と区別する必要はないという見方もありうる。また,①・②の場面でも,警察・検察が押収する際には裁判官の許可(令状)が必要であり(刑事訴訟法で),その限りで無制限に押収が認められるわけではなく,手続の上でも特に問題はないと考えることも 理論上はできる。ただし実際は,こうした警察・検察による押収について,裁判所がダメ(却下)という場合はまずなく(全体の 0.02%ぐらい),裁判所のチェックがきちんと機能していないのではないかという問題もある。

(2)公正な裁判の実現(37 条)との衝突②―裁判での証言義務と「取材源の秘匿」

 ・意義:取材源の秘匿とは,記者が問題の情報を誰からもらったのかということを,他者には漏らさないこと, つまり外部にはニュースの出所(ニュース・ソース)・情報提供者(informer ; informant)をアイデン ティファイ(明らかに)しないことを意味する。 

・根拠:①もし取材源が明らかにされてしまえば,情報提供者は記者への今後の情報提供を躊躇し,将来の取材活動への萎縮的な効果が生じる。 

     ②新聞記者の側と情報を提供する側とのあいだに取材源を絶対に公表しないという信頼関係があっ てはじめて正確な情報が提供される。 

    ③情報提供者のプライバシーのほか,社会的立場の保護するためにも,情報源を明かしてならない場合がある(内部告発の場合など)。 

・問題:①取材源の秘匿は,少なくともジャーナリストの職業倫理としては,すでに確立された原則である。 しかし,憲法論・法律論のレベルで取材源の秘匿が認められるかについては議論の余地がある。 

     ②裁判において,新聞記者等のジャーナリストが証人として呼ばれた場合,その記者は証言をする法律上の義務を負う(民事訴訟法 200 条・刑事訴訟法 160 条)。そして,その記者等が情報源について も包み隠さず証言することが,「真実」を発見し,「公正な裁判」をおこなうという観点からは望ましい(憲法 32 条,37 条)。

    ③しかし,情報源の秘匿が職業倫理として望ましいことは,上で述べたとおりある。法的に見ても, 

 (ⅰ)取材源の秘匿も取材の自由(憲法 21 条 1 項)として保障されるのではないか, 

 (ⅱ)また,医師や弁護士,宗教職にある者などは,仕事上知り得た秘密については裁判での証言を拒絶できるとされている(刑事訴訟法 149 条,民事訴訟法 197 条)。こういった職業は, 秘密についての信頼関係があってはじめて意味をなすからである。このような信頼関係を保護する必要性は,ジャーナリストと情報提供者との関係にも当てはまるのではないか。 

     ④そこで,取材源の秘匿は憲法上保障されるか,保障されるとしても,「公正な裁判」・「真実の発見」 という要請と衝突した場合どちらが優越するか,が問題になる。 

 民事事件では,一定の場合には,裁判で証言の拒絶ができる場合があると法律(民事訴訟法)で定められてお り,その場合の一つとして,「職業上の秘密」(民事訴訟法 197 条 1 項 3 号)に関する事柄は証言拒絶ができると 定められている。そこで,実際の裁判では,ジャーナリストが取材源について裁判で証言を拒絶することは,こ の「職業上の秘密」にあたるのではないか,というかたちで,議論される。証言拒絶権(取材源秘匿権)を憲法 上の取材の自由として認める立場からすると,その事件で,取材源秘匿権(21 条)のほうが公正な裁判の実現(37 条 )よりも重要と判断されれば,その証言拒絶は,「職業の秘密」(民訴 197 条 1 項 3 号)にあたる,と解釈されることになる(判例を前提にすれば,「職業の秘密」のうち,「保護に値する秘密」にあたると解釈。もっとも最高裁は,後に見るように,憲法論には触れていない)。 

 他方,刑事事件の場合,この民事事件のように,「職業上の秘密」にあたる場合には証言拒絶ができる,という法律上の規定がない(刑事訴訟法 149 条参照)。そのため,ジャーナリストの取材源の秘匿をどのようなかたちで 認めるのか,という点が問題となる。最高裁は後に簡単に見るように,取材源の秘匿は憲法上保障されていない と判断した(石井記者事件)。他方で学説では,取材源の秘匿・証言拒絶は憲法上保障された権利であるから,憲 法から直接,証言拒絶権を導くべきだという見解や,医師などに職務上の秘密について証言拒絶を認める刑訴法 149 条の(類推)適用を通じて,記者の取材源秘匿・証言拒絶を認めるべきだという見解などが主張されている。 

 この点,刑事裁判では特に真実発見の要請が重要だという点に着目すれば,証言拒絶ができるのは刑訴法 149 条の場面に限定すべきだ(記者の証言拒絶まで認める必要はない)という方向になりやすい。ちなみに,刑事事 件について証言拒絶ができる場合の刑訴法 149 条の列挙(医師等)は,刑法上の秘密漏示罪(134 条)に対応している。刑訴法 149 条が医師等に証言拒絶を認めているのは,仮に裁判で秘密を証言すると秘密漏示罪になってし まうというジレンマを解消するための単なる確認規定に過ぎないのだと考えれば,証言拒絶ができる場合を,刑 訴法 149 条の列挙(医師等)に限定する必要はない,と考えることも可能にはなる。 

ア 刑事裁判――朝日新聞石井記者事件(最大判昭和27・8・6) 

・判旨:公正な裁判の実現は重要であるため,取材源の秘匿は憲法上保障されていないと判断。 

イ 民事裁判①――北海道新聞島田記者事件(最決昭和 55・3・6) 

 ・判旨:東京高裁は,取材源の秘匿が憲法上保障されているかどうかについては明言しなかったが,新聞記者の取材源に関する情報は,法律上,証言拒絶の対象となる「職業の秘密」(民事訴訟法 197 条 1 項 3 号)にあたる可能性もあると述べ,証言拒絶ができるかどうかは,証言拒否によって得られる利益(取材源の秘匿)と失われる利益(公正な裁判)とを比較衡量して決めると判断。結論として証言拒否を認めた(最高裁もその結論を妥当と判断)。 

事件の内容は次のとおり。1997 年のある日,北海道新聞の朝刊に,「保母が園児にせっかん? 父母らが訴える」 という見出しのもとで,札幌市の篠路高洋保育園で,主任保母 A が騒いだ園児たちにかなりひどい体罰を課したというので,父母らの間でこのことが問題となっている旨を伝える記事が掲載された。A は,この記事は事実無根の,自らの名誉を傷つける記事であると主張し,新聞社を相手に裁判を起こした。この裁判において,問題の記事を執筆した島田英重記者が証人として呼ばれたが,島田記者は,その情報源についての証言を拒絶した。東京高裁は次のような判断を示し,記者の証言拒絶を認めた。①新聞記者の取材源は,証言拒絶ができる場合にあ た る(民事訴訟法 197 条)。②しかしながら他方,真実を明らかにし,「公正な裁判」をおこなう要請も無視できない重要なものである。③そこで,新聞記者が証言拒絶を行なうことができるかどうかは,取材源秘匿によって得られる利益と,公正な裁判の実現という利益との比較衡量によって決せられるべきである。この衡量の際には, 事件の重大性,取材源を明らかにする必要性(証拠の必要性),取材源を明らかにすることが将来の取材の自由に及ぼす影響,などが考慮されるべきである。④この事件の解決のためには,島田記者の取材減を明かすことが必須とまではいえず,記者の取材源秘匿は正当な理由がある。

ウ 民事裁判②――NHK記者事件(最決平成 18・10・3。百選 71 事件) 

・判旨:上記の東京高裁とほぼ同様の理由づけで,最高裁も法律上の証言拒絶権(取材源の秘匿)を認めた。

事件の内容は次のとおり。エフエルピー・ジャパン有限会社は,健康・美容アロエ製品を製造,販売する企業グループの日本における販売会社である。アロエ・ベラ・オブ・アメリカ・インクは,この企業グループのアメ リカにおける関連会社である。NHK は,平成 9 年 10 月 9 日午後 7 時のニュースで,エフエルピー社が 77 億円の 所得隠しをし,日本の国税当局から 35 億円の追徴課税を受け,さらにこの所得隠しに関わる利益がアロエ・ベラ・ オブ・アメリカにも送金されていたとして,アメリカ合衆国の国税当局も追徴課税をしたなどの報道をした。アロエ・ベラ・オブ・アメリカは,アメリカ合衆国の国税当局の職員が,日本の国税庁の税務館に対してこの情報を提供し,その情報が日本の報道機関に漏洩され,しかもそれが虚偽の内容を含むものであったため,株価の下 落などの損害を被ったと主張し,アメリカ合衆国を相手に裁判を起こした。この裁判の過程で,NHK の記者は記 事の出所について証言を求められたが,その記者は「取材源の秘匿」を盾に証言を拒んだ。最高裁判所は,この 記者の証言拒絶に正当な理由がある(=取材源の秘匿は職業の秘密:民事訴訟法 197 条 1 項 3 号にあたり,この 事件で問題となった取材源は「保護に値する秘密」だ)と判断した。百選 75 事件の<解説>を参照 

(3)法廷における取材活動――「知る権利」の補足もかねて 

ア 北海タイムス事件(最 大 決 昭 和 3 3・ 2・ 1 7) 

・争点:法廷で写真撮影をする際には裁判所の許可が必要とする刑事訴訟規則 215 条等が,記 者の取材の自由(21 条 1 項)を侵害し違憲かどうかが争点となった。 

・判旨:①報道・取材の自由といえども無制約ではなく(12 条・13 条 :公共の福 祉),「公判廷における審判の秩序」のために制約を受けると最高裁は述べ,刑事訴訟規則等は合憲と判断。 

    ②その際,裁判公開原則(憲法 82条)は,「手続を一般に公開してその審判が公正に行われることを保障」する(密室裁判を防ぐ)趣旨(憲法 32 条, 37 条参 照)だと述べている(≒ 裁判公開原則があるからといって当然に写真撮影が許されることにはならない)。

イ レペタ事件(最 大 判 平 成 元 ・ 3・ 8, 百 選 72 事 件 ) 

・争点:法廷で傍聴人がメモをとることを裁判所が禁止したことが,傍聴人の取材の自由を侵 害するかどうかが問題となった(百選では引用が簡素なため,以下で補充)。 

・判旨:①裁判公開原則(82 条 )は傍聴人に対してメモをとる行為まで保障したものではない。 

    ②また「情報等に接し,これを摂取する自由」は,憲法 21 条 1 項の規定の趣旨・目的から,その派生原理として当然に導かれ(よど号ハイジャック記事抹消事件 :最大判昭和 5 8・ 6・ 2 2。 百選 14 事件参照 ),その情報摂取の補助としてなされる限り,筆記行為の自由は憲法 21 条 1 項の精神に照らして尊重されるべきである。 

    ③「裁判の公開が制度として保障されていることに伴い,傍聴人は法廷における裁判を検分することができるのであるから,傍聴人が法廷においてメモをとることは, 尊重に値し,故なく妨げられてはならない」。 

    ④もっとも,筆記行為の自由も,他者の人権や優越する公共の利益がある場合には一 定の合理的制限を受ける。そして筆記行為の自由は,表現の自由そのものではない から,メモ採取を禁止することが違憲か否かを裁判所が厳格に審査する必要はない。 

    ⑤この点,公正かつ円滑な訴訟の運営のためには筆記行為の自由も制限を受ける。他方,そもそもメモをとる行為が訴訟の運営を妨げることは通常ありえず,傍聴人の 自由に任せるべきであり,それが憲法 21 条 1 項の規定の精神に合致する。 

    ⑥もっとも裁判所には,法廷の秩序維持のためにとりうる措置を判断(法廷警 察権を行使)する裁量権(自由な判断の余地)があり,この事件でメモを禁止したことも違法ではない。

行政活動の基準(行政法総論)

  1.はじめに (1)行政訴訟において本案上の主張を展開するときには、多くの場合、行政活動の違法を指摘することが求められます。ここで行政活動の違法とは、行政活動が法に 違 ( たが ) うことを意味します。 (2)したがって、行政活動の違法を指摘するためには、まず、その...