以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。なお、前回の続きという名目で記事を書いているので、番号振り等も前回の続きから始めている。
主に法律の記事を書いています。憲法が好きなのでそこらへんの記事が多くなるかもしれません。司法試験・司法予備試験・その他法曹資格を目指している方や、大学の授業で困ったことがあったらぜひ参考にしてください。 このブログの記事は、殆ど学説にのっとることはせず、判例に基づいた解釈を行っています。
2021年9月19日日曜日
集会の自由《集団行動 / 表現の自由のまとめ》
集会の自由《公共施設の利用》
以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。
違憲審査基準論《人権の限界》
なお、以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。
1.意義
・視点:①人権の限界に関する判例の考え方を知る上では,「比較衡量」・「比例原則」が重要である。
②他方,学説では長らく,比較衡量論に対して批判的な見解が主張されてきた。すなわち, 比較衡量論は,一般的に比較の準則が必ずしも明確ではなく,とくに国家権力と国民との利益の衡量が行われることが多い憲法の分野においては,国家権力の利益が優先する可能性が強い点に,根本的な問題があると,学説ではいわれている。
③そこで,この点を克服するために,学説で主張されてきたのが,アメリカ判例に由来する「二重の基準の理論」に基づく「違憲審査基準論」であり,判例でも時に,部分的に言及されることがあるように見える部分もある。
・定義:二重の基準の理論とは,「表現の自由のような精神的自由を制約する国の行為(法律など)の合憲性は,経済的自由(職業の自由=憲法 22 条 1 項など)の制約における以上に厳格な基準」に よって判断されなければならない(泉佐野市民会館事件,最判平成 7・3・7,百選 81 事件),という考え。
②レペタ事件(「表現の自由の制約の場合に一般に必要とされる厳格な基準」)
③「北方ジャーナル」事件(「表現の自由,とりわけ,公共的事項に関する表現の自由は,特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならない」)
④税関検査事件(後述)(「表現の自由は,憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものである」)
⑤小売市場事件(最大判昭和 47・11・22,百選 91 事件)(「個人の経済活動の自由に関する限り,個人の精神的自由等の場合とは異なって,……一定の合理的制限を講ずることは……憲法が許容する」)
⑥薬事法事件(最大判昭和 50・4・30,百選 92 事件)(「職業の自由は,……精神的自由に比較して,公権力による規制の要請が強く」)
⇒これらの判例は,二重の基準の理論,少なくとも表現の自由が特に重要であることに, 一般論としては言及している。しかし,特に最高裁は,表現の自由を制限する法律の合憲性を,必ずしも厳格に審査しているわけではない。この点が,学説によって批判されている。
⇒近年は,このアメリカ判例に由来する二重の基準論よりも,ドイツ判例に由来する「三段階審査論・比例原則」という考え方のほうが,日本の判 例を読み解く上で有用なのではないか,という意見も,有力になりつつある。この点は,後の職業の自由のところでも詳しく扱うが,学説で長らく通説だった二重の基準 という考え方が,日本の判例に影響を与えた部分も全くないわけではないため,以下, どこまで影響を与え,どこまで影響を与えていないのかという点に着目しながら,二重の基準論に関連する諸法理,すなわち表現の自由を制限する国家行為(法律等)の合憲性を裁判所が審査するときに守るべき諸ルールを見ることにしたい。
・根拠:①民主政の過程論 経済的自由に関する不当な立法は,民主政の過程が正常に機能している限り,議会でこれを是正することが可能であり,適当でもある。これに対して, 民主政の過程を支える精神的自由は「壊れやすく傷つき易い権利」であり,それが不当に制限されている場合には,国民の知る権利が十分に保障されず,民主政の過程そのものが傷つけられているために,裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営を回復する必要がある。
②裁判所の審査能力論 経済的自由の規制については,社会・経済政策の問題が関係することが多く,政策の当否について審査する能力が乏しい裁判所としては,特に明白に違憲と認められない限り,立法府の判断を尊重する態度が望まれる芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店,第 7 版,2019 年)202 頁。二重の基準の根拠については,学説上さまざまな議論がなされている。詳細は,文献を 探す手がかりにもなりうるものとして,松井茂記「違憲審査基準論」大石眞・石川健治編『Jurist 増刊・憲法の争点』(有斐閣,2007 年)282 頁,内野正幸『憲法解釈の論理と体系』(日本評論社,1991 年)216 頁以下,曽我部 真裕ほか『憲法論点教室』(日本評論社,第 2 版,2019 年)17 頁〔松本哲治〕,石川建治ほか『憲法訴訟の十字路』 (弘文堂,2019 年)等を参照のこと。 。
2.検閲の禁止
(1)判例――税関検査事件判決(最大判昭和 59・12・12,百選 73 事件)
(2)学説
2021年9月18日土曜日
表現の自由《性表現・青少年保護》
以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ(第8版)」を指す。
1.性表現
(1)なぜ性表現は規制されるべきなのか――道徳・倫理と法
・視点:①憲法 21 条 1 項は,「言論,出版,その他一切の表現の自由」を保障するとしている。 「一切の」表現行為が保障されるのであれば,そこにはポルノ等の性表現も含まれ, 現代の日本社会においては自由な性表現が許されると考えるべきようにも思われる。
②しかし,刑法 175 条は,性表現は規制されるべきだとする(「わいせつな文書,図画,電磁的記 録に係る記録媒体その他の物を頒布し,又は公然と陳列した者は,2 年以下の懲役又は 250 万円以下の罰金若しくは科料に処し, 又は懲役及び罰金を併科する。 電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も,同様とする。」)。
③それでは,刑法 175 条は表現の自由を侵害し違憲なのか,また仮に合憲だとすれば, なにゆえに性表現は規制されなければならないのか,という問題が生じ得る。
ア 判例:健全な性道徳の維持――「チャタレイ夫人の恋人」事件(最大判昭和 32・3・13,百選 51 事件)
・分析:この事件で最高裁判所は,性表現を規制する根拠を,「性行為の非公然性」という「性道徳」の維持に求めた。そして,これは「必要最小限の道徳」であり,法的規制の対象になるという(さらにこの「道徳」の中身は「社会の多数の人々の集合意識」ではなく,裁判官が認定すべきものである,とした)。
・批判:学説では,この最高裁判決に批判的な論者が多くを占めているこれに関して、百選 51~53 事件の<解説>などを参照。学説状況の概観については,奥平康弘『ジャーナリズムと法』(新世社,1997 年)。詳細については,アメリカの議論状況との比較も含め,加藤隆之『性表現規制の限界』(ミネルヴ ァ書房,2008 年)を参照。。批判論者いわく,
①健全な性道徳というものの内容は不明確である。性表現が世にあふれることにより, 具体的に社会にどのような害悪・弊害が生じているのかは必ずしも明らかになっていない。このような曖昧な根拠に基づいて表現行為を取り締まるべきではない。
②そもそも国家は道徳的・倫理的に中立であるべきであり,法を通じて特定の道徳・ 倫理思想(特に社会多数派の社会通念)をおしつけるのは,個人の自律性を無視したいらぬお節介である。法と道徳・倫理は別物である(政治哲学のリベラリズムという考え方に通じる)これに関連した次のような批判もある。“ある表現の内容が許されるべきものかどうかは,国家権力ではなく市場における市民の判断に委ねられるべきである,という考え(思想の自由市場)が,表現の自由の根底にある。裁判所という国家権力が法を通じてわいせつ物を取り締まるというやり方は,この思想の自由市場 とそぐわない。国家が表現内容の是非を判断して規制するというのは,表現の受け手である市民の自律性を無視したいらぬお節介である。”。
イ 学説:「見たくない人の権利」と「子供の人格権」の保護
・視点:①以上のような批判にもかかわらず,性表現をいっさい規制してはならない,完全に自由化すべきだ,というところまで徹底する論者は,今のところ多数説にはなっていない。
②もっとも,性表現に規制が必要だと主張する論者も,その規制の根拠については議論が分かれる。有力な見解の一つは,上に見た批判を踏まえ,最高裁のように「性道徳の維持」と捉えるのではなく,「見たくない人の権利」と「子供の人格権」の保護(憲法 13 条後段)という二点に求める。
③すなわち,未成年者は人格の発展途上にあり,テレビや漫画などによる低俗なわいせつ表現によって,その人格の発達が妨げられてはならない,という。さらに,いかにポルノ愛好家であっても,自宅の前にわいせつなポスターが貼ってあれば嫌悪感を抱くであろうし,また,出勤や通学の際に,会社や学校の前に猥褻なポスターが貼ってあれば, やはり嫌悪感を抱く人も多いであろうと思われる。成人は,わいせつな表現によって, もはや人格を妨げられることはないが,「見たくないときには見せられない」という権利があると考えられる,というなお,最近においては,ポルノ規制の根拠として,いわゆる「フェミニズム」ないし「性差別」を持ち出す論者もいる。すなわち,ポルノは男性の性的支配を是認・助長し,そういうものとしてそれは「女性の人権」を侵 害するものであり,それ故に性表現は法的に規制されるべきである,という。もっとも,はたして女性は,国が ポルノ規制をして「守ってあげるべき弱い存在」といえるのか,むしろそういう理由で性表現を規制するほうが 性差別を助長するのではないか,という意見もあり,議論状況は必ずしも単純ではない。。
(2)規制されるべき性表現とはいったい何か―「わいせつ」の概念と「比較衡量」
ア 判例
(ア)わいせつの 3 要件―「チャタレイ夫人の恋人」事件 ⇒百選 53 事件
(イ)「全体的考察方法」―「悪徳の榮え」事件(最大判昭和 44・10・15)⇒百選 54 事件
(ウ)わいせつ概念の再構成――「四畳半襖の下張」事件(最判昭和 55・11・28)⇒百選 55 事件
イ 学説
・視点:上で見た学説のように,性表現の規制の根拠を「見たくない人の権利」と「子供の人格権」 に求める場合,これらを侵害しない限りは,性表現を規制することは許されないことになる。つまり,ある表現が「わいせつ」物(刑法 175 条)として規制されるべきものかどう かは,
(ⅰ)性表現の自由(憲法 21 条 1 項)と,
(ⅱ)「見たくない人の権利」・「子供の人格権」(憲法 13 条)
との「比較衡量」によって決まる。どちらが優位するかは,ケース・バイ・ケースである。
・帰結:①何が「わいせつ」物かは,表現物自体において決められるのではなく,状況との関連の なかで決められる。たとえば,本屋で適法に売られている週刊誌のヌードグラビアを切り取って中学校の校門近くに掲示すれば,わいせつ物陳列罪に問われることになりうる。
②上の(ⅱ)の権利を侵害しない限り,内容的にいかに露骨な描写のものであっても,これを規制することはできない。この場合,性表現を規制する理由がないからである(この観点からすると,現在行なわれている成人指定映画の上映に関する規制やアダルト・ビデオに対する規制は厳格すぎる,ということになりうる。見たくない大人や子供に見せないためには,年齢確認等,表現の時・場所・方法を規制すれば十分だからである)。
③(ⅱ)の権利が害された場合には,規制が許される(「わいせつ」かどうかを判断する基準として,性器等の露出の有無を重視しているかのような下級審裁判例もあったが,(ⅱ)の権利が害される場合には,たとえ下着を着用していても規制の対象となる場合がありうることになる)。
(3)ピカソや歌麿のポルノ芸術も規制されるべきなのか――芸術と法
・視点:性表現・ポルノ作品といっても,見るにたえない低俗なものばかりではない。中には 芸術的価値の高いポルノ作品もある(たとえば,ピカソやクリムトのポルノは有名であるが,そのほかにもロダンやミレー,レンブラント,ルーベンスに至るまで,実に多くの画家たちがポルノ芸術を残している。日本においても,歌麿に 代表される種々の浮世絵は,性表現を含むものが多々ある。また,格調高い文藝作品に性表現が含まれていることは,しばしば見られる現象である)。このような芸術作品も,刑法 175 条のいう「わいせつ」として規制の対象になるのか。
・判例:①芸術性とわいせつ性は全く別の問題であり,芸術的側面において優れた作品でも, わいせつ性をもっていると評価され,法的な規制を受けることもありうる(「チャタレイ夫人」事件)。
②もちろん,芸術性・思想性が,性的描写による性的刺激を緩和させ,法的規制の必要性を失わせることはありうる。しかし,その程度までわいせつ性が解消されない限り,芸術作品だからといって直ちに法的規制を免れるということにはならない(「悪徳の榮え」事件)。
*「定義づけ衡量」という考え方について
①かつて性表現は,名誉棄損的表現や,後に扱う犯罪の煽動と並んで,「価値の低い表現」として, 表現の自由(憲法 21 条 1 項)の保護を一切受けないと考えられてきた。もっとも,最近は,性表現 であってもやはり表現の自由の保障は受けるべきだと考えられている。もちろん,表現の自由も絶対無制約ではなく,「公共の福祉」(12 条,13 条)による制約は受ける。性表現を規制する刑法 175 条は,そういう「公共の福祉」を守っているのならば違憲とはいえない。
②問題は,刑法 175 条が守ろうとしている「公共の福祉」(刑法でいえば「保護法益」)とは何なのかという点である。判例は「性道徳の維持」だとしているが,これは表現の自由を制約する理由としてあいまいすぎるという批判が学説では多い。この学説の批判を徹底すると,刑法 175 条は表 現の自由を侵害する違憲の法律だということになる。
③もっとも,そこまで徹底する論者は多くなく,有力な見解の一つは,刑法 175 条は子どもの人格権・見たくない人の権利(憲法 13 条)を守っている限りでは合憲だとする。他方,その意味で,こうした限定をつけていない刑法 175 条は,規制対象が広すぎるため違憲だ,という主張もありうる。あるいは,仮に刑法 175 条の「わいせつ」という文言自体は,こうした子供の人格権や見たくない人の権利を保護する規定なのだと狭い意味で解釈で きる限りで合憲だとしても,子どもの人格権や見たくない人の権利を害していない性表現に対 して刑法 175 条を適用すると,それはその性表現を行った者の表現の自由(憲法 21 条 1 項)を侵害することになる。
④そして,このように,刑法 175 条が規制の対象にしている「わいせつ物」とは,たとえば“子どもの人格権や見たくない人の権利を害する性表現だ”というふうに解釈し,性表現を自由にできる場合(表現の自由の保障を受ける性表現)と,そうでない場合(子ども・見たくない人の権利を傷つけるので規制の対象になる性表現)を「あらかじめ」区別しようとする考え方を,「定義づけ衡量」ということもあ る。何が取り締まりの対象となる「わいせつ物」(刑法 175 条)かを定義する(=刑法でいえば「構成要件該当性」を判断する)際に,表現の自由(憲法 21 条)と子どもの人格権・見たくない人の権利(同 13 条)との比較衡量を「あらかじめ」行い,「わいせつ」の範囲を限定しておくという考えである。あるいは“「芸術表現」は「わいせつ物」(刑法 175 条)ではない”というかたちで,表現の自由が及ぶ範囲をあらかじめ明確にしておく,という類型化を行うのが定義づけ衡量といわれる。こういう類型化を(狭く)行う結果,本来,取り締まってもよいような性表現も,規制の対象から外れることもありうるという問題もあるが,しかし類型化をした方が,どういう表現が取り締まりの対象になるのかが明確になり,表現の自由への「萎縮効果」(本来許される表現を処罰を恐れて差し控える効果)が少なくなるといわれる。
⑤ちなみに,こうした「限定」・「類型化」の例として,憲法上の保護を受けない「ハードコアポルノ」と,それ以外の表現物とを区別する,という考え方もある(最判昭和 58・3・8 の伊藤正己裁判官の補足意見)。
⑥なお,判例のように,性表現の規制の根拠を「性道徳の維持」に求める場合,「わいせつ」物頒布罪(刑法 175 条)で処罰されるどうかは,個々の事案での表現の自由と性道徳の維持との比較衡量で決まることになろうなお,その際の法律構成として,仮に刑法の枠内で論じるとすれば,①そもそもわいせつにあたるか否かを判断する際に,上記の比較衡量を行うか(構成要件該当性),②あるいは,わいせつにはあたるとしても,憲法上の表現の自由の行使として正当化されると構成するか(違法性阻却事由),多様な構成がありうる。。この衡量の際,悪徳の栄え事件判決によれば, 「文書全体」から考えて芸術的価値がある場合には「わいせつ」にあたらないと判断される可能性も示唆されていた。そして実際,最近の事件で最高裁判所は,写真家メイプルソープの写真集(男性器を映した白黒写真が含まれていた)について,芸術的評価が高いこと,問題の性表現が写真集 全体:386 頁のうち 19 頁に過ぎないこと,等を理由に,輸入禁止の対象となる「風俗を害すべ き書籍,図画」(関税定率法 21 条 3 項)にはあたらないと判断している。第二次メイプルソープ事件(最 判平成 20・2・19,百選 53 事件の解説)。
2.青少年の保護――「有害図書」の販売規制
・視点:1970 年代,いわゆる「悪書」追放運動というものが,PTAを中心としてさかんに行なわれ,これが全国に広がった。この運動は,暴力表現や性表現などを含む漫画や雑誌など の「有害」図書から子供を守ろうとするものである。この運動を受け,各自治体は,こうした図書を青少年の目に触れさせないように販売規制をするなどして対応した(青少年保護育成条例の制定など)。これに対し,実際に規制を受けた出版社などが,表現の自由の侵害を裁判で主張するという事件がいくつか起こることとなった。なお,この規制の対象となる「有害図書」は,青少年の保護にとってマイナスとなる表現物を意味し,上で見た, 刑法 175 条が禁止する「わいせつ」文書よりも広い概念である(すなわち,「わいせつ」に至らない性表現も規制の対象となりうるし,暴力表現や残忍な表現なども「有害図書」に含まれ,規制の対象となる)。
・判例:岐阜県青少年保護育成条例事件(最判平成元・9・19) ⇒百選 56 事件
・分析:①この事件で最高裁は,「有害図書」が性的逸脱行為などにつながることは「社会共通の認識」であるとした。しかし学説では,両者の関係は証明されておらず,表現の自由を規制する理由がはっきりしない(有害図書規制という手段と青少年の保護という目的との間に合理的関連性がない),と主張する見解が有力である。
②さらに他方で,インターネットで有害情報が多く入手できる現状からすると,未成年保護という規制の目的にとって,自動販売機での販売規制という手段はむしろ不十分(過小包摂)だという指摘もある(①②の指摘は,特に表現の自由への制約は厳格に審査すべきだという立場からなされる)。
③また,この判決は,青少年というものは判断能力に欠けるところがあり,自己決定能力 が未熟であるとみなしているようにも見える。学説では,このような「パターナリズム」 (=父親が,子供のためという名目で,子供の同意を取りつけることなく,子供の運命・自由を左右すること。それと同じようなかたちで,国家権力が本人すべてを代位して,本人に対する配慮を行なう仕組み。つまり「本人を保護する」という目的で,本人の権利を制限すること)に対して批判的な論者が多い。すなわち,「児童の権利条約」にも示されている通り,近年では,こうした青少年の一般的未熟性を前提とせず,むしろ子供の自己決定能力の可能性を前提としたうえで,それを育成・増進させるべきだ,という考えかたが有力になりつつある。
④この判決は,事件自体は地味であり,また,判決文そのものは結論しか語っていないため,この判決文の表面を読むだけでは,あまり有益な示唆は得られない。そのため,この判決そのものを覚えてもあまり意味はないが,実はこの事件には,憲法上の人権問題 を考える上での大事な論点が,ほぼ網羅されているといってよいほど,重要な憲法問題が多く伏在している点にも注目のこと。
*類似の事件での事案の区別の可能性――DVD の自販機と監視カメラ
DVD の自動販売機に監視カメラが設置されており,客が 18 歳以上だと監視員が判断した場合には遠隔操作で販売機に電源を入れ,購入を許すというシステムがある。これは岐阜県の事案とは異なり,対面販売と変わらないため,こうした自動販売機での DVD の販売まで規制の対象に含め,青少年保護育成条例を適用すること表現の自由の侵害なのではないか,という点が問題となった事件がある。しかし最高裁は,このモニター画面では客の正確な年齢は確認できないこと,監視員が人目にさらされていないため販売したいと思うあまり年齢確認を怠る可能性が高いこと,などを理由に合憲判断を示している(最判平成 21・3・9)。
*児童ポルノをめぐる問題
①アメリカでは,年間二十万人の子供が行方不明になっており,そのうちの相当数が児童ポルノ産業の犠牲になっているといわれている。
②児童を被写体とした「児童ポルノ」については,これまで述べてきた一般のポルノとは区別されなければならないといわれている。児童ポルノは,成人映画として上映することは許されず,その製造・販売・インターネットへのアップロードはもちろん,購入・アクセス・所持自体を処罰することも可能だとする見解が有力である(アメリカではそのような規制を設ける州が少なくない)。その理由として,児童ポルノについては,作者・業者の表現の自由,愛好家の「見る権利」よりも,被写体となる児童の人権のほうがはるかに重要(児童ポルノ産業自体を根絶させる必要)という点があげられる。
③日本においても,児童ポルノ処罰法が成立し,この「児童ポルノ」にあたるかどうかは,上で見た「わいせつ」の場合とは異なり,「いたずらに」性欲を刺激させなくても処罰の対象になるとされている(京都地判平成 12・7・17)。なお,2015 年に,児童ポルノの単純所持を処罰する方向で法改正されたが,処罰の対象となるのは,「自己の性的好奇心を満たすための所持」 に限定されているそのため,例えば子どもと水浴びをしている写真を親が持っているというだけでは,通常は処罰の対象にはならないと考えられる。児童ポルノの憲法問題については,概説書として,松井茂記『マス・メディア法入門』(日 本評論社,2013 年)184 頁,同『インターネットの憲法学』(岩波書店,2014 年)156 頁など。
表現の自由《報道の自由・取材の自由》
以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ(第8版)」を指す。
1.素材となる事件――外務省秘密電文漏洩事件:西山記者事件(最 決 昭 和 5 3・ 5・ 3 1,百選 75 事 件 )
(1)事件のあらまし ⇒百選 75 事件の<事実の概要>を参照
(2)当事者の主張
ア 国(検察)の主張
・国家秘密を守ることは重要なため,これを聞き出そうとした者は誰でも犯罪になる(「秘密漏示そそのかし罪」(国 家公務員法 111 条・1 09 条 12 号 ・100 条 1 項)。ちなみに地方公務員は,地方公務員法 62 条・60 条 2 号・3 4 条 1 項 2 項))。新聞記者も例外ではない。
イ 記者(被告人・西山氏)の主張
・新聞記者には「表現の自由」(憲法 21 条 1 項)の内容として「取材の自由」が認められている。新聞記者が国家秘密を聞き出すことは,憲法で認められている取材の自由の行使であり,記者としての当然の仕事(正当業務行為。刑法 35 条)であるから,犯罪(「秘密漏示そそのかし罪」)にはならないはずである。
2.考えてみよう
(1)基本的知識の確認――報道の自由・取材の自由の意義 :<若干の復習と補足>
⇒名誉・プライバシー侵害を復習のこと(後述の博多駅事件決定が述べたように,国民主権・民主主義 にとって報道・取材の自由は大事)。
・判例:①報道の自由…「憲法 21 条 1 項の保障の下にある」
②取材の自由…「憲法 21 条の精神に照らし,十分に尊重に値する」
・分析:取材の自由は憲法上保障されているのかどうか,判例の立場は必ずしも明確ではないが,おそらく判例は,“取材は報道のために必要であるため,取材の自由も憲法上保障されるが,取材は「表現そのもの」ではなく,その前提・「手段」の一つにとどまるため,報道の自由よりも保障の程度が低い,そのため,その取材の自由への制約が憲法違反か否かを裁判所が厳格に審査する必要はない”という立場 に立っていると考えられる(後述のレペタ事件も参照)。
かつて最高裁は,後述の石井記者事件(最大判昭和 27・8・6)で,取材の自由について,憲法 21 条の保障は「公共の福祉に反しない限り,いいたいことはいわせなければならないということであ」り,「未だいいたいことの内 容も定まらず,これからその内容を作り出すための取材」活動が制限されるのは当然,という言い方をしており, 取材の自由を憲法で保障することについて極めて消極的であった。これと比較すると,上述の博多駅事件判決の 言い回しは,一歩前進しているともいえる。だがこの事件で最高裁が,「尊重に値する」という微妙な言い回しを し,「保障される」と明言しなかったのは,石井記者事件判決の考え方の影響が残っていることの現れともいえる。
・学説:(上記の判例の言い回しを批判して)報道は,取材・編集・発表という一連の行為により成立するもの であり,取材は報道にとって不可欠の前提をなすものであるから,取材の自由も憲法 21 条によって直接 「保障される」というべきである,と主張するものが多い。
(2)事件の解決のしかた
ア 最高裁判所はどう判断したか ⇒百選 75 事件の<決定要旨>を参照
イ 理解のポイント
・視点:①この事件では,外務省の事務官から外交機密を聞き出した新聞記者に対し,「秘密 漏示そそのかし罪」を適用し,刑罰を科することは,記者の取材の自由・表現の 自由(憲法 2 1 条1 項)を侵害することになるのではないか,という点が問題となった。
②つまりこの事件には,憲法の目から見た場合,A記者の取材の自由(憲法 2 1 条)の 保護と B 国家秘密の保護(記者を 有罪 と して刑罰を科す るこ と は, 国家 秘 密の保護に とっ てプラスになる) のどちらを優先すべきか,という問題が含まれているといえる。
③この問題の解決のしかたとして,論理的には,次の三つの可能性がある。
(ⅰ)常に B 国家秘密の保護が優位する(国(検察)の主張),
(ⅱ)常に A 取材の自由が優位する(記者の主張),
(ⅲ)ケース・バイ・ケースである,
④最高裁は,基本的に法律(刑法)解釈論を中心に検討しており,純粋な憲法論を正面から論じているわけではないが,あえて憲法の目から見ると,おそらく(ⅲ)の立場だと考えることはできる。というのは,最高裁によれば,A 取材の自由と B 国家秘密のどちらが優位するかは,一定の条件(( ア ) 報 道 目 的 ,( イ ) 取 材 の 手 段 ・ 態 様 の 相 当 性 )が満たされるかどうか,という点に左右されるからである。
⑤この事件では,条件(イ)を満たさないため,記者の行為は違法・有罪と判断されたと読むこともできる。しかし,もし記者が肉体関係を利用せずに常識的な範囲内での取材をしていたとすれば,国家秘密を聞き出したとしても無罪になる可能性が――少なくとも理論上は――ある。
なお,純粋に憲法の目から見た場合,このような形で,取材のやりかた(手段・方法)によって結論が変わるのはおかしいのではないか,という批判もあり得る。つまり,取材の自由と国家秘密のどちらが優位するのかは, A 記者に刑罰を科すことによって生じる取材の自由・表現の自由へのダメージと,B 問題となった国家秘密の重要性のどちらが大きいのかによって決めるべきであり,取材のやりかた(手段・方法)が妥当かどうかは,憲法 論としては関係のない事情なのではないか,という批判もあり得る。この点は刑法を一通り学んだあとで戻ってくると,より理解が深まる(はず)。刑法上のキーワードだけ述べておくと,最高裁は基本的に,犯罪行為に違法性があるかどうかを判断する際,こうした行為者の行為・手段の反倫理性も考慮に入れて判断する立場にある。 刑法では行為無価値論といわれる。これに対し,A と Bを純粋に比較衡量する立場のことを結果無価値論という。 憲法と刑法との関係を分析した専門書として,上田正基『その行為,本当に処罰しますか』(弘文堂,2016 年)。
ちなみに,この西山記者事件での(ア)目的の正当性や(イ)手段の相当性という判断枠組みは,刑法 35 条の解釈論として判例がしばしば用いるものである。すなわち被告人の行為が,形式的には犯罪を定める条文にあたる場合でも(国家公務員法が禁止する「秘密」の「そそのかし」にあたる。構成要件該当性。百選の判旨のⅠと Ⅱ),なお法令等に基づく正当な行為(刑法 35 条)として,違法性がなくなり犯罪が不成立になるかどうか(違法性阻却事由。百選の判旨のⅢ),という問題を判断する際に,判例がしばしば用いるのが,この(ア)目的の正 当性や(イ)手段の相当性という判断枠組みである。これに対し,目的・手段審査は,こうした 憲法上の権利(取材の自由)を行使している国民の行為ではなく,憲法上の権利の制約をしている国家の行為が 憲法上許されるかどうかを判断する際の枠組みである。両者を混同しないよう注意していただきたい。 他方で実は,(話をややこしくして申し訳ないのだが)この刑法の思考を,憲法の世界に応用しているのが,「三段階審査・比例原則」である。つまり,刑法の世界では,①まず,「刑法の条文が禁止してい ることを個人がやった」ことを確認する作業があり,これを「構成要件該当性」と呼ぶが,これを憲法の世界に 応用しているのが,「保護範囲」への「介入」である(「基本権構成要件」と呼ぶこともある)。すなわち,まず「憲法の条文が禁止していること(保護範囲)を国がやった(介入)をこと」を確認する必要がある。そして,刑法 の世界では,次に,仮に個人の行為が形式的は条文にあたるとしても,なお「正当な行為」として,違法性がな くなる場合があり(刑法 35 条や,正当防衛・緊急避難など),これを「違法性阻却事由」ないし「正当化事由」 という。この点を判断する際には,「目的・手段」審査が行われる。これを憲法の世界に応用したのが,「国の行為が憲法上の権利を制約しているとしても,なお「公共の福祉」のための制約として「正当化」される場合があ り,どのような場合に国の行為が合憲になるのかは,国の行為の「目的・手段」を審査する,という思考である。 この点に関する文献の紹介や,こういう刑法からの類推が妥当かどうかという問題なども含めて,本格的な研究 論文としては,小島慎司「憲法上の権利の防御権的構成について」上智法学論集 62 巻 3・4 号(2019 年)253 頁。
* 補足:特定秘密保護法との関係
最近成立した「特定秘密保護法」も,この「秘密漏示そそのかし罪」と同様の規定を置いている(同法 25 条・23 条 1 項)。そして,ある情報を「特定秘密」に指定する場合等には,①「国民の知る権利の保障に資 する報道又は取材の自由に十分配慮しなければならない」と定め(同法 22 条 1 項),②「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については,専ら公益を図る目的を有し,かつ,法令違反または著しく不当な方 法によるものと認められない限りは,これを正当な業務による行為とするものとする」と定めている。これ は,先ほどの西山記者事件の最高裁の判断を念頭に置いたものである。
なお,特定秘密保護法の適用の対象となる秘密とは,「国の存立にかかわる外部からの侵略等に対して国 家及び国民の安全を保障する」という目的のために秘密にする必要のある外交等の情報である。これに対し, 西山記者事件で問題になった「秘密漏示そそのかし罪」は,こうした特定秘密以外の秘密一般について適用される。一方で,こうした特定秘密は,国民の知る権利にとって重要な情報であるため,これを聞き出そうとした記者を有罪にできるかどうかを判断する際には,西山記者事件よりも厳しい基準で(つまり記者等を有罪にしない方向で)判断すべきだという意見もある。他方で,まさに秘密にする必要が高い情報であるからこそ,むしろこれを聞き出そうとした記者については,西山記者事件の場合よりも緩やかな基準で有罪にできる(つまり記者等が有罪になりやすくなる),という考え方もありうる。
3.その他の重要最高裁判例
(1)公正な裁判の実現の要請(37 条)との衝突①―取材テープの差押え・提出命令
・問題:①テレビ局などが報道のために撮影したビデオ・フィルムが,犯罪捜査や,それに続 く裁判における証拠調べのために差押え・押収されることがある。事件の現場など が撮影されていた場合,このようなフィルムが事件の真相解明にとって必要である ことは否定できない(「 真実発見 」,「 公正な裁判 」 の要請 。憲法 32条 ,37条 )。
②しかし他方,テレビ局としては,このビデオ・フィルムは報道目的のためにのみ収集したものであるから,これを他の目的に流用することはできないと主張している。 すなわち,こうしたビデオ・フィルム等を,報道以外の他の目的に流用することは, 報道のための取材に協力した人々の信頼を裏切ることになり,将来の取材活動にと っても不利益になる(報道 ・ 取材の自 由 。 憲法 2 1 条 1 項 )。
③それでは,「公正な裁判」と「取材の自由」のどちらを優先させるべきか。
ア 裁判所による取材フィルムの提出命令:博多駅事件(最 大 決 昭 和 4 4・ 11・ 2 6,百選 73 事件)
イ 検察官によるマザーテープの差押え:日本テレビ事件(最 決 平 成 元 ・ 1・ 3 0)
1988 年秋,国民の注目を引いたリクルート疑惑事件に関連して,衆議院の楢崎弥之助議員が,自分に対する贈 賄の容疑者である M を自分の部屋に招いて面談し,その模様の全貌を密かに 2 度にわたって日本テレビのカメラに収録させた。そして楢崎氏は,M を贈賄の容疑者として刑事告発をした。そこで検察は,M に関する贈賄事件 を取り調べる必要から,日本テレビが保管するビデオテープ 4 本を差押えた。これに対し日本テレビは,この差押えは報道・取材の自由を侵害すると主張。最高裁は次のように述べ,日本テレビの側の負けと判断。①取材の 自 由は憲法上尊重に値するが,適正迅速な捜査のために一定の制約を受ける。②この事件におけるテープは証拠上きわめて重要で,事件の全容解明のためには不可欠といえる。③他方,このテープは,すでに編集を終え,放送済みであるから,これを差し押さえたからといって放送に支障をきたすことはない。さらに,この事件では, 取材源である楢崎氏自身がこのテープを重要証拠としてあげており,テープの差押えによって取材協力者との信頼関係に影響が出るという事情はない。
・分析:最高裁は,博多駅事件と同様の頭の使い方(判断枠組み)でこの事件も処理した。しかし学説では,①裁判所(公正な裁判の担い手)の提出命令と検察官(裁判の一 方当事者)の押収 とを同列に論じるべきではない,②取材の自由と対立している「公正な裁判の実現」 (博多駅事件)と「捜査の必要性」(日本テレビ事件)とでは,その重要度が違うはずだ,と の主張がなされている。
ウ 司法警察員によるマザーテープの差押え:TBS 事件(最 決 平 成 2・ 7・ 9,百選 74 事件 )
・分析:この事件でも最高裁は,博多駅事件の判断枠組みを維持した。しかし学説では,上述イの②の点に加え,裁判所(および検察官 :裁判の主 体)と司法警察員(たんなる捜 査の担い手) とを同列に論じるべきではない,との主張がなされている。
犯罪事件の証拠集めは,①まず警察が現場の検証などを通じて,関係するものを集められるだけ集め(TBS 事件はこの場面),それを検察に送り,②その中から検察が,裁判に必要なものを取捨選択し,不足分があれば自分 で捜索・押収などして証拠を集め(日本テレビ事件はこの場面),裁判で提出し,被告人の有罪を立証しようとす る。③そして裁判になり,検察と被告人(弁護人)との主張・立証の争いの中で,それぞれが提出した証拠だけ では結論が出しにくい場合などに,裁判所が,一定の証拠を提出するよう命令することがある(博多駅事件はこの場面に近いが,厳密には刑事裁判にすべきか否かを判断する付審判請求手続)。①・②は「捜査の必要」のため 押収であり,③は「公正な裁判」のための提出命令である。収集される際の手続きの慎重さは,①<②<③と なる。そのため,①・②の場面で,取材テープの押収を広く認めるということになると,取材の自由へのダメー ジが相当に大きくなるのではないか,という問題があるとして,学説上,批判されているわけである。
もっとも,③博多駅事件は,有罪・無罪を決める刑事裁判そのものではなく,起訴する必要があるかどうかを 判断する不審判請求の場面であり,「捜査の必要」も考慮される場面であり,①②と区別する必要はないという見方もありうる。また,①・②の場面でも,警察・検察が押収する際には裁判官の許可(令状)が必要であり(刑事訴訟法で),その限りで無制限に押収が認められるわけではなく,手続の上でも特に問題はないと考えることも 理論上はできる。ただし実際は,こうした警察・検察による押収について,裁判所がダメ(却下)という場合はまずなく(全体の 0.02%ぐらい),裁判所のチェックがきちんと機能していないのではないかという問題もある。
(2)公正な裁判の実現(37 条)との衝突②―裁判での証言義務と「取材源の秘匿」
・意義:取材源の秘匿とは,記者が問題の情報を誰からもらったのかということを,他者には漏らさないこと, つまり外部にはニュースの出所(ニュース・ソース)・情報提供者(informer ; informant)をアイデン ティファイ(明らかに)しないことを意味する。
・根拠:①もし取材源が明らかにされてしまえば,情報提供者は記者への今後の情報提供を躊躇し,将来の取材活動への萎縮的な効果が生じる。
②新聞記者の側と情報を提供する側とのあいだに取材源を絶対に公表しないという信頼関係があっ てはじめて正確な情報が提供される。
③情報提供者のプライバシーのほか,社会的立場の保護するためにも,情報源を明かしてならない場合がある(内部告発の場合など)。
・問題:①取材源の秘匿は,少なくともジャーナリストの職業倫理としては,すでに確立された原則である。 しかし,憲法論・法律論のレベルで取材源の秘匿が認められるかについては議論の余地がある。
②裁判において,新聞記者等のジャーナリストが証人として呼ばれた場合,その記者は証言をする法律上の義務を負う(民事訴訟法 200 条・刑事訴訟法 160 条)。そして,その記者等が情報源について も包み隠さず証言することが,「真実」を発見し,「公正な裁判」をおこなうという観点からは望ましい(憲法 32 条,37 条)。
③しかし,情報源の秘匿が職業倫理として望ましいことは,上で述べたとおりある。法的に見ても,
(ⅰ)取材源の秘匿も取材の自由(憲法 21 条 1 項)として保障されるのではないか,
(ⅱ)また,医師や弁護士,宗教職にある者などは,仕事上知り得た秘密については裁判での証言を拒絶できるとされている(刑事訴訟法 149 条,民事訴訟法 197 条)。こういった職業は, 秘密についての信頼関係があってはじめて意味をなすからである。このような信頼関係を保護する必要性は,ジャーナリストと情報提供者との関係にも当てはまるのではないか。
④そこで,取材源の秘匿は憲法上保障されるか,保障されるとしても,「公正な裁判」・「真実の発見」 という要請と衝突した場合どちらが優越するか,が問題になる。
民事事件では,一定の場合には,裁判で証言の拒絶ができる場合があると法律(民事訴訟法)で定められてお り,その場合の一つとして,「職業上の秘密」(民事訴訟法 197 条 1 項 3 号)に関する事柄は証言拒絶ができると 定められている。そこで,実際の裁判では,ジャーナリストが取材源について裁判で証言を拒絶することは,こ の「職業上の秘密」にあたるのではないか,というかたちで,議論される。証言拒絶権(取材源秘匿権)を憲法 上の取材の自由として認める立場からすると,その事件で,取材源秘匿権(21 条)のほうが公正な裁判の実現(37 条 )よりも重要と判断されれば,その証言拒絶は,「職業の秘密」(民訴 197 条 1 項 3 号)にあたる,と解釈されることになる(判例を前提にすれば,「職業の秘密」のうち,「保護に値する秘密」にあたると解釈。もっとも最高裁は,後に見るように,憲法論には触れていない)。
他方,刑事事件の場合,この民事事件のように,「職業上の秘密」にあたる場合には証言拒絶ができる,という法律上の規定がない(刑事訴訟法 149 条参照)。そのため,ジャーナリストの取材源の秘匿をどのようなかたちで 認めるのか,という点が問題となる。最高裁は後に簡単に見るように,取材源の秘匿は憲法上保障されていない と判断した(石井記者事件)。他方で学説では,取材源の秘匿・証言拒絶は憲法上保障された権利であるから,憲 法から直接,証言拒絶権を導くべきだという見解や,医師などに職務上の秘密について証言拒絶を認める刑訴法 149 条の(類推)適用を通じて,記者の取材源秘匿・証言拒絶を認めるべきだという見解などが主張されている。
この点,刑事裁判では特に真実発見の要請が重要だという点に着目すれば,証言拒絶ができるのは刑訴法 149 条の場面に限定すべきだ(記者の証言拒絶まで認める必要はない)という方向になりやすい。ちなみに,刑事事 件について証言拒絶ができる場合の刑訴法 149 条の列挙(医師等)は,刑法上の秘密漏示罪(134 条)に対応している。刑訴法 149 条が医師等に証言拒絶を認めているのは,仮に裁判で秘密を証言すると秘密漏示罪になってし まうというジレンマを解消するための単なる確認規定に過ぎないのだと考えれば,証言拒絶ができる場合を,刑 訴法 149 条の列挙(医師等)に限定する必要はない,と考えることも可能にはなる。
ア 刑事裁判――朝日新聞石井記者事件(最大判昭和27・8・6)
・判旨:公正な裁判の実現は重要であるため,取材源の秘匿は憲法上保障されていないと判断。
イ 民事裁判①――北海道新聞島田記者事件(最決昭和 55・3・6)
・判旨:東京高裁は,取材源の秘匿が憲法上保障されているかどうかについては明言しなかったが,新聞記者の取材源に関する情報は,法律上,証言拒絶の対象となる「職業の秘密」(民事訴訟法 197 条 1 項 3 号)にあたる可能性もあると述べ,証言拒絶ができるかどうかは,証言拒否によって得られる利益(取材源の秘匿)と失われる利益(公正な裁判)とを比較衡量して決めると判断。結論として証言拒否を認めた(最高裁もその結論を妥当と判断)。
事件の内容は次のとおり。1997 年のある日,北海道新聞の朝刊に,「保母が園児にせっかん? 父母らが訴える」 という見出しのもとで,札幌市の篠路高洋保育園で,主任保母 A が騒いだ園児たちにかなりひどい体罰を課したというので,父母らの間でこのことが問題となっている旨を伝える記事が掲載された。A は,この記事は事実無根の,自らの名誉を傷つける記事であると主張し,新聞社を相手に裁判を起こした。この裁判において,問題の記事を執筆した島田英重記者が証人として呼ばれたが,島田記者は,その情報源についての証言を拒絶した。東京高裁は次のような判断を示し,記者の証言拒絶を認めた。①新聞記者の取材源は,証言拒絶ができる場合にあ た る(民事訴訟法 197 条)。②しかしながら他方,真実を明らかにし,「公正な裁判」をおこなう要請も無視できない重要なものである。③そこで,新聞記者が証言拒絶を行なうことができるかどうかは,取材源秘匿によって得られる利益と,公正な裁判の実現という利益との比較衡量によって決せられるべきである。この衡量の際には, 事件の重大性,取材源を明らかにする必要性(証拠の必要性),取材源を明らかにすることが将来の取材の自由に及ぼす影響,などが考慮されるべきである。④この事件の解決のためには,島田記者の取材減を明かすことが必須とまではいえず,記者の取材源秘匿は正当な理由がある。
ウ 民事裁判②――NHK記者事件(最決平成 18・10・3。百選 71 事件)
・判旨:上記イの東京高裁とほぼ同様の理由づけで,最高裁も法律上の証言拒絶権(取材源の秘匿)を認めた。
事件の内容は次のとおり。エフエルピー・ジャパン有限会社は,健康・美容アロエ製品を製造,販売する企業グループの日本における販売会社である。アロエ・ベラ・オブ・アメリカ・インクは,この企業グループのアメ リカにおける関連会社である。NHK は,平成 9 年 10 月 9 日午後 7 時のニュースで,エフエルピー社が 77 億円の 所得隠しをし,日本の国税当局から 35 億円の追徴課税を受け,さらにこの所得隠しに関わる利益がアロエ・ベラ・ オブ・アメリカにも送金されていたとして,アメリカ合衆国の国税当局も追徴課税をしたなどの報道をした。アロエ・ベラ・オブ・アメリカは,アメリカ合衆国の国税当局の職員が,日本の国税庁の税務館に対してこの情報を提供し,その情報が日本の報道機関に漏洩され,しかもそれが虚偽の内容を含むものであったため,株価の下 落などの損害を被ったと主張し,アメリカ合衆国を相手に裁判を起こした。この裁判の過程で,NHK の記者は記 事の出所について証言を求められたが,その記者は「取材源の秘匿」を盾に証言を拒んだ。最高裁判所は,この 記者の証言拒絶に正当な理由がある(=取材源の秘匿は職業の秘密:民事訴訟法 197 条 1 項 3 号にあたり,この 事件で問題となった取材源は「保護に値する秘密」だ)と判断した。百選 75 事件の<解説>を参照
(3)法廷における取材活動――「知る権利」の補足もかねて
ア 北海タイムス事件(最 大 決 昭 和 3 3・ 2・ 1 7)
・争点:法廷で写真撮影をする際には裁判所の許可が必要とする刑事訴訟規則 215 条等が,記 者の取材の自由(21 条 1 項)を侵害し違憲かどうかが争点となった。
・判旨:①報道・取材の自由といえども無制約ではなく(12 条・13 条 :公共の福 祉),「公判廷における審判の秩序」のために制約を受けると最高裁は述べ,刑事訴訟規則等は合憲と判断。
②その際,裁判公開原則(憲法 82条)は,「手続を一般に公開してその審判が公正に行われることを保障」する(密室裁判を防ぐ)趣旨(憲法 32 条, 37 条参 照)だと述べている(≒ 裁判公開原則があるからといって当然に写真撮影が許されることにはならない)。
イ レペタ事件(最 大 判 平 成 元 ・ 3・ 8, 百 選 72 事 件 )
・争点:法廷で傍聴人がメモをとることを裁判所が禁止したことが,傍聴人の取材の自由を侵 害するかどうかが問題となった(百選では引用が簡素なため,以下で補充)。
・判旨:①裁判公開原則(82 条 )は傍聴人に対してメモをとる行為まで保障したものではない。
②また「情報等に接し,これを摂取する自由」は,憲法 21 条 1 項の規定の趣旨・目的から,その派生原理として当然に導かれ(よど号ハイジャック記事抹消事件 :最大判昭和 5 8・ 6・ 2 2。 百選 14 事件参照 ),その情報摂取の補助としてなされる限り,筆記行為の自由は憲法 21 条 1 項の精神に照らして尊重されるべきである。
③「裁判の公開が制度として保障されていることに伴い,傍聴人は法廷における裁判を検分することができるのであるから,傍聴人が法廷においてメモをとることは, 尊重に値し,故なく妨げられてはならない」。
④もっとも,筆記行為の自由も,他者の人権や優越する公共の利益がある場合には一 定の合理的制限を受ける。そして筆記行為の自由は,表現の自由そのものではない から,メモ採取を禁止することが違憲か否かを裁判所が厳格に審査する必要はない。
⑤この点,公正かつ円滑な訴訟の運営のためには筆記行為の自由も制限を受ける。他方,そもそもメモをとる行為が訴訟の運営を妨げることは通常ありえず,傍聴人の 自由に任せるべきであり,それが憲法 21 条 1 項の規定の精神に合致する。
⑥もっとも裁判所には,法廷の秩序維持のためにとりうる措置を判断(法廷警 察権を行使)する裁量権(自由な判断の余地)があり,この事件でメモを禁止したことも違法ではない。
行政活動の基準(行政法総論)
1.はじめに (1)行政訴訟において本案上の主張を展開するときには、多くの場合、行政活動の違法を指摘することが求められます。ここで行政活動の違法とは、行政活動が法に 違 ( たが ) うことを意味します。 (2)したがって、行政活動の違法を指摘するためには、まず、その...
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以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。なお、 前回の続き という名目で記事を書いているので、番号振り等も 前回の続き から始めている。 3.集団行動・集団示威運動(デモ行進など)と公安条例・道路交通法による規制 ・視点:①「動く集会」としてのデモ行進な...
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ここから憲法の人権分野で一番重い表現の自由を概説していく。以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ(第8版)」を指す。 1.素材となる事件――小説「石に泳ぐ魚」事件(最判平成 14・9・24,百選 62 事件) (1)事件のあらまし ⇒百選 62 事件の<事実の概要>お...
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