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2021年5月15日土曜日

<判例を意識した学修の重要性と学説(基本書を学ぶ)の意義>

特に,憲法判例の射程を,そもそも憲法判例とは何かという点も含めて検討対象に据えた教材として, 近時,横大道聡編著『憲法判例の射程(第 2 版)』(弘文堂,2020 年)を参照。

*とある国家試験の採点実感に,次のような記述がある。これは,国家試験対策という視点にとどまらず,憲法学・法律学を,特に「法解釈学」という観点から学ぶ際の,基本的な留意事項 が示されているともいえる部分もあるため,ここで紹介しておく。

・「司法試験は,法曹となるべき者に必要な知識・能力を判定する試験であるので, 検討の出発点とし て判例を意識することは不可欠であり,判例をきちんと踏まえた検討が求められる。したがって,判例に対する意識が全くない,あるいは,これがほとんどない答案は,厳しい評価とならざるを得なか った。判例に対しては 様々な見解があり得るので,判例と異なる立場を採ること自体は問題ないが, その場合にも,判例の問題点をきちんと指摘した上で主張を組み立てていくことが求められる。」(平成 26 年司法試験の採点実感等に関する意見) 

・「昨年度と同様であるが,判例及びその射程範囲が理解できていない答案が目立った。それゆえ,「法科大学院教育に求めるもの」として,昨年度と同じ指摘をしたい。 法科大学院では,実務法曹を養成 するための教育がなされているわけであるが, その一つの核をなすのは判例である。学生に教えるに 当たって,判例への「近づき方」が問われているように思われる。 判例の「内側」に入ろうとせずに 「外在的な批判」に終始することも,他方で,判例をなぞったような解説に終始することも,適切で はないであろう。判例を尊重しつつ,「地に足を付けた」検討が必要であるように思われる。判例の正 確な理解,事案との関係を踏まえた当該判例の射程範囲の確認,判例における問題点を考えさせる学習の一層の深化によって,学生の理解力と論理的思考力の養成がますます適切に行われることを願いたい。」(同上) 

・「本問は,全面的に直接に依拠できる判例が存在する事案ではないが,参考となる判例の射程を正確に理解し,本問事例との相違を指摘しつつ議論の展開を可能な限り判例に基づいたものにしようとする 答案は,論述も説得的なものとなり,評価が高かった。」(平成 28 年司法試験の採点実感等に関する意見) 

・「本問限りの独自の枠組みを定立しているかのような答案も見られた。しかし,判断の枠組みの定立に当たっては,判例や学説をきちんと踏まえる必要がある。」(平成 27 年司法試験の採点実感等に関する意見)

①以上のように,判例の重要性が強調されていることに,改めて留意されたい。大教室の授業で も繰り返し強調したところではあるが,最高裁判所の憲法解釈は,それがたとえ「理論上」 は誤ったものであったとしても,「制度上」は正しいものとみなされて,いわば世の中を実際 に動かしている(憲法 81 条参照)。乱暴に言えば,結論を宙ぶらりんにして世の中を混乱させるよ りは,誰かが決断して見解を統一したほうがマシだ,ということである。その結論を出す「誰 か」について,憲法 81 条は「最高裁判所」だと述べている。そういう意味で,最高裁判例と いうものは,最高裁判所という国家機関の示した憲法解釈(有権解釈・公定解釈)として,条文と同 じくらいの重みをもっているともいいうる(なお,判例が出ていない分野では,内 閣の示した 憲法解釈― ―政府見解 ― ―が世の中を動かすことになる)。 

②これに対して,学説というものは,まさに学者という一個人の意見表明に過ぎない。たとえその見解が,圧倒的多数の学者集団に支持されていても(通説),それはあくまでも学者という個 人・私人の意見表明である。理論的には,Hans Kelsen, Reine Rechtslehre, 2. Aufl. 1960 (Nachdruch 2000), S. 271ff, S. 346ff. ;ケルゼン(長 尾龍一訳)『純粋法学 第二版』(岩波書店,2014 年)。また,長尾一紘『基本権解釈と利益衡量の法理』(中 央大学出版部,2012 年)136 頁以下のほか,内野正幸『憲法解釈の論点』(日本評論社,2005 年)209 頁 , 安念潤司「判例で書いてもいいんですか?」中央ロー・ジャーナル第 6 巻第 9 号(2009 年)85 頁以下。

③とはいえもちろん,これは判例を無批判に受容せよということではなく,学説を完全に無視 してよいというわけでもない。学説・基本書を学ぶ意義として,下記の諸点がありうる。 

・学説は,あくまでも個別の事例判断である個々の判例を体系的に整理し,理解するための 補助線となる。いわゆる「三段階審査」や「違憲審査基準」も,一面では,学説が,判例読解のための補助線として提示しているという側面もある。「体系性」を与えるのが,「学」 の本質的作用の一つである。もちろん,判例自身に体系性が欠如している場合,これを批判的に考察する契機としてもこうした学説の営為が有用である。判例は基本的に個別の事例判断ではあるが,その判断に,法に照らした一貫性がなければ,それは法治国家とはいえない(完全に事例ごとにアドホックに判断すればよいのであれば,裁判はくじやサイコロで行っても構わないはずであるし,判決・ 決定に「理由」を付す必要もなくなる。関連して,大林啓吾・見平典『最高裁の少数意見』(成文堂,2016 年)269 頁〔柴田憲司〕。また判例の読み方や「憲法判例」の特性は,中野次男『判例とその読み方』(有斐閣,第 3 版,2009 年)を参照。ただし,そう した体系を「ドグマーティク」として 演繹的に構築するか ,それとも 個別の判例から帰納的に構築するか,という論点 がある。大陸法の制定法主義 と 英米法の判例法主義の違い にも関連する。芦部憲法は,実は後者に傾斜している。だがそこに徹底はしておらず,前者の影響もうけている。前者に根差す三段階審査 論は,芦部憲法学 を克服するために登場 して いるが,うまくいっているかは議論の対象となっている。

・また,当該判例の射程が及ばない事例や,判例が出ていない分野,判例が詳細な説明をし ていない事項などについては,議論の手がかりの多くは学説から獲得せざるを得ないこと となる。なぜその権利が保障されるのか,どのような基準が用いられるべきなのか,とい うような点は,その権利が憲法で保障された「趣旨」(歴史的・哲学的・比較法的論拠等)にさかのぼ りつつ論じないと,説得的な議論にはならない。そのような趣旨等の感得は,基本書読解 を通じて初めて確実なものとなる。 

・そして,判例の射程がどこまで及ぶのか,を見極める際にも,学説・基本書の記述の助け が必要になることが多い。また,同じ判例の読み方自体をめぐっても,学説上,あるいは 原告・被告の間で争いがあることがある。この点を知る上でも,学説・基本書読解が必要 になることが多々ある。 

・さらに,判例に対する学説の評価を学び,多様な見解に触れることで,法律家に必要なバ ランス感覚の涵養にもつながりうる。理由づけの仕方や批判・反論の仕方を学び,「説得的」 な立論を行うための思考は,こうした学説・基本書との格闘を通じて初めて確実となる。 短絡的なゴールインを目指すと,明快ではあるが浅薄な立論に終わる(芦部・「初版はしがき」参照)。 主張・反論型の出題がなされる理由の一つは,この点に関連しているともいえる(正しい見解・ 真理とは,あらかじめ存在していることの「認識」ではなく,他方で,正し見解など存在しないから個人の好みで「決断」してよいもので もなく,「論証可能性」(説得力)だとするのが,現在の学問的方法論の到達点である)。 

・あるいは,学説で比較的広く好意的に受容されている判例と,そうではない判例の確認,「相場観」の見極めのためにも,基本書読解を通じた学説理解は,極めて重要である。 


民法事例演習ー信頼関係破壊の法理

 <問題> 

甲土地およびその地上に存する2階建ての乙建物(3LDK=3部屋とリビングとダイ ニングキッチンの間取りの建物)を所有するXは、Yに対して、乙建物を目的として、月額 家賃15万円、敷金は家賃1カ月分、賃貸借期間10年、賃貸借の目的をY及びYの家族の 居住目的とする約束で賃貸した。その契約書の中には、「もしYが乙建物につき増改築をす るときは、賃貸人Xの承諾を要する。これに違反した場合には、Yは無催告で賃貸借契約を 解除され、目的物の返還を請求されても異議を述べることはできない」という旨の特約があ った。 ところでYは、それまで賃料を滞りなく支払う等、Xとの関係を良好に保っていたが、賃 貸開始から約9年経過後、Xの承諾を得ることなく、長女が本格的にピアノを習い始めるの に合わせて、乙建物の1階にある洋室に防音工事を施した(工事費用は約200万円。主な 工事の内容は、壁材を防音性能のある壁材に取り換え、窓を二重窓とし、部屋のドアを防音 性の高い扉へ変更する、というものであった)。その後、その工事を知ったXは、無断で工事したことを理由に、当該賃貸借契約を解除したうえで、Yに対して建物の明け渡しを求めた。 Xの主張は認められるか、改正民法の適用を前提として論じなさい。


■ 問題の所在 

 本問においてXは、Yとの間で期間の定めのある賃貸借契約を締結しているが、その後、 Yの債務不履行(特に、用法遵守義務違反)を理由に、契約の解除(民法 541 条、620 条。 なお、かつては、541 条適用説・非適用説が対立していたが、現在では適用することに異論 は見当たらない)をしたうえで、乙建物の返還を求めている(解除(民法 541 条)を原因と する賃貸借契約(601 条)の終了に基づく目的物返還請求としての乙建物明渡請求)。 

これに対して、Yは解除の成否を争うことになる。そもそも、法定解除が認められるため には、契約の相手方(本問ではY)が「債務を履行していない」こと(=債務不履行)が要 件となるが、この点、本問では、無断で増改築してはいけない旨の約定がある。そこで、もしYの行った行為が「増改築」に該当するのであれば、それをXの承諾を得ずに行っているため、用法遵守義務違反という債務不履行が認められることになる。 

しかし同時に、判例は、後述のとおり、形式的には賃借人に債務不履行に該当するような 行為があったとしても、賃貸借契約の性質に鑑み、解除を制限する法理(解除制限法理とし ての「信頼関係破壊の法理」)を確立している。これは、改正民法下でも引き継がれる法理 である。改正民法のもとで、信頼関係破壊の法理がどのように位置づけられるのかは、未知数な部分もあ る。中田 426 頁でも、「改正民法における信頼関係破壊法理の位置づけ」というコラムを設けて論じ ている。詳しくは同書を参照されたいが、要点は、「より一般的な規律の中で論じられる」可能性が あるという点である。すなわち、①解除制限は、「不履行の軽微性(541 条ただし書)」の解釈の中 で、➁無催告解除は、「債務者の履行拒絶(542 条 1 項 2 号)」や「履行見込みの不存在(542 条 1 項 5 号)」の解釈の中で、それぞれ論じるという考えである。 しかしいずれにしても、今まで構築された判例理論はそのまま踏襲されることが予想され、同法 理の学修が必須であることには何ら変わりがない。同法理を押さえつつ、依拠する条文が何になる のか、今後の裁判例・学説の動向を注視してほしい。そこで、その法理にあてはめてうえで、なお、法定解除の要件を充たすかどうかの検討が必要となる。 

さらに、本問においてXは、無催告 で解除を行っている。通常、法定解除を行うためには、 相当の期間を定めて履行の催告をしたうえで、その期間内に履行がないときにはじめて解 除ができる(民法 541 条。同条が法定解除の原則的条文であり、無催告解除を認める場合に ついて、民法 542 条で規定している)。しかし本問では、X・Y間の特約によって、無断で 増改築をした場合に無催告で解除ができる旨の合意がある。そこで、このような合意は有効 なのかも問題となる。また、そのような合意の有効性の有無にかかわらず、判例は、無催告 で解除ができる場合を認めている(上記とは異なる無催告解除法理としての「信頼関係破壊の法理」)。その基準に当てはめたうえで、無催告解除の有効性を検討する必要もある。

■ 解説 

 1.増改築禁止特約(前提の確認) 

法定解除(民法 541 条)が認められるためには、まず、Yに何らかの債務不履行が認めら れなければならないが、本問では特に、無断増改築禁止特約が盛り込まれている。そしてY は、Xの承諾なく乙建物の一階部分に防音工事を施している。これが「増改築」に当たるか どうか、(念のため)確認をする。 

同特約は、一般的な建物賃貸借契約の中に見受けられるものであるが、その趣旨は、賃借人が賃貸目的物について、同意を得ずに工事を行うことによって、賃貸目的物を原状に戻す ことが困難になること(なお、賃借人は賃貸借契約終了時に、原状回復義務を負う。民法 621 条)を未然に防ぐ点にあると考えられる。かかる趣旨からすると、「増改築」とは、賃貸目 的物の原状回復を困難にするような工事等をいうと考えられる。 

本件では、2階建ての3LDKの建物の一階部分の洋室部分への防音工事にすぎないが、 防音工事をいったん施してしまうと、原状回復の際には、施工された洋室の壁を大きく取り 換える必要も生じると考えられ、さらに窓や入り口に施された防音の設備の撤去と回復に 過分な費用が生じでしまうので、たとえ一室だけであったとしても、原状回復の際には、そ の回復が困難になることが十分考えられる。従って、本件のYがXの同意を得ずに行った防 音工事は、「増改築」にあたると考えられる。

詳細については割愛するが、事例中に「特約」が登場した場合には、①特約に対する合意の有無 (その特約について、契約当事者間で合意がなされたかどうかというレベルの評価)、➁特約の有効 性(その特約の内容が、民法 90 条、消費者契約法、民法における「定型約款」に関する規定などに 照らして、有効なものと評価できるかというレベルの評価)、➂具体的行為の特約該当性(特約が有 効であることを前提としつつ、問題となる具体的な行為が、特約に該当する行為か否かというレベルの評価)に分類することができる。そしてさらに、本問題のような不動産賃貸借事例においては、 ④特約違反があった(=債務不履行があった)としても、それが信頼関係を破壊するに至っている かというレベルの評価が加わる。

2.信頼関係破壊の法理 

不動産賃貸借契約においては、一般的な履行遅滞解除とは異なる解除の法理が、判例上で 確立している。それが、「信頼関係破壊の法理」である。同法理は、①解除を制限するため の法理と、②無催告解除を認める(=催告をすることなく解除を認める)法理という、2 つの方向で存在しているが、このうち、①については、以下のとおりである。 

すなわち、形式的には賃借人の債務不履行が認められたとしても、借地・借家契約を解除 するためには、信義則上、単なる債務不履行ではなく、当事者間の信頼関係が破壊される程度に至ることを必要とする、というものである。

〔数多くの判例があるが、一例として、最判昭和 41 年 4 月 21 日民集 20 巻 4 号 720 頁〕 「一般に、建物所有を目的とする土地の賃貸借契約中に、賃借人が賃貸人の承諾をえないで 賃借地内の建物を増改築するときは、賃貸人は催告を要しないで、賃貸借契約を解除するこ とができる旨の特約(以下で単に建物増改築禁上の特約という。)があるにかかわらず、賃 借人が賃貸人の承諾を得ないで増改築をした場合においても、この増改築が借地人の土地 の通常の利用上相当であり、土地賃貸人に著しい影響を及ぼさないため、賃貸人に対する信頼関係を破壊するおそれがあると認めるに足りないときは、賃貸人が前記特約に基づき解除権を行使することは、信義誠実の原則上、許されないものというべきである。

解除制限としての信頼関係破壊の法理は、判例上、無断譲渡転貸(民法 612 条)の事例に おいて契約解除を制限する法理として登場したが(最判昭和 28 年 9 月 25 日民集 7 巻 9 号 979 頁)、それ以外の債務不履行事例にも用いられることとなった。例えば、借家における 賃料不払いの事例(最判昭和 39 年 7 月 28 日民集 18 巻 6 号 1220 頁)や、増改築禁止特約 違反の事例(最判昭和 41 年 4 月 21 日民集 20 巻 4 号 720 頁)などにも波及して、より一般 的な法理となっている。 

信頼関係の破壊の内容として、①賃貸人に重大な経済的損失を与える状況であれば、信頼関係が破壊されたことを認めやすく、②単に賃貸人の主観的・感情的な信頼を害するにすぎ ない場合であれば、信頼関係が破壊されていないと評価されやすい。いずれにせよ、形式的 には債務不履行が認められる状態なので、賃借人(債務者)の方が、信頼関係を破壊するに 足りない特段の事情を立証する必要がある。(仮に、改正民法のもとで、「軽微」性(民法 541 条ただし書)を検討することになっても、思考方法は同様である)

3.あてはめ 

 本問では、2階建ての3LDKの建物の一階部分の洋室部分への防音工事という、ある程 度限定的なものではあるものの、原状回復が困難となることも十分に考えられる「増改築」 に該当する。そのようなリスクを事前に回避するための特約であった(そして、その特約は、 建物の賃貸借市場でも一般的に認められている特約である)にもかかわらず、Yがそれに違 反しているのであるから、背信性がないと評価できる特段の事情は見受けられない。したが って、Xの解除は有効に認められ、Xの主張は認められるものと考える。

〔留意事項〕 

時に、判例法理を活かすことばかりを考えて、結果の妥当性が確保されない答案が散見される。「法 理を活用して規範を立てる」という作業は大切であるが、あてはめの段階でその法理の適用を否定する というのもあり得る。 

また、裁判例の射程にも十分に留意してもらいたい。たとえば、上記最判昭和 41 年は、「土地の賃貸借契約」における「借地内建物の増改築」の事例であり、「建物の賃貸借契約」における「当該建物の 増改築」の事例ではない。混同しないように留意されたい。有り体に言えば、建物を借りて無断で増改 築をしたのに、信頼関係が破壊されていないという類のあてはめは、(相当極端な特殊事情がない限り) 相当困難である。

4.無催告解除特約 

ところで、本問においては、XはYに対して無催告で契約解除をしている。これに関し、 賃貸人が解除をなし得るための要件を充たしているとしても、それを「無催告」で行うこと ができるか否かは、別に検討しなければならない。 

そもそも、民法改正を通じて、解除の要件は「重大な契約違反」に収斂し、催告解除はその一類 型にすぎないと捉えるように解除法体系が変更したのか、それとも、民法改正後も従来どおり、催告解除と無催告解除の二類型という解除法体系が維持されているのかは、今後の解釈論上の問題と して残っている。

 (1)無催告解除特約の有効性 

まず、法定の無催告解除は、民法 542 条に列挙されているが、本問に該当する事由はな い。しかし本問では、X・Y間において(単に無断増改築禁止の特約ではなく、無断で増改 築をした場合には無催告で解除ができるという)無催告解除の特約が付されている。このよ うな特約は、不動産賃貸借契約や物品売買契約においてよく見られるものである。 

そもそも一般論としては、相当な期間を定めての催告(民法 541 条)は、債務者が解除の 不利益を受けるのを阻止する最後の機会を与えるという意味において重要なものである。 したがって、その機会を奪うことは、債務者に不利益をもたらす特約ということになる。消 費者契約法、民法における定型約款の規定、一般規定(民法 90 条、1 条 2 項)などに基づ き、特約が無効なものと評価される余地は残されている。 

しかし他方で、判例は、原則的に、無催告解除特約も有効と解しており(最判昭和 37 年 4 月 5 日民集 16 巻 4 号 679 頁、最判昭和 40 年 7 月 2 日民集 19 巻 5 号 1153 頁、最判昭和 43 年 11 月 21 日民集 22 巻 12 号 2741 頁など)。また、特に「無断増改築禁止特約違反」の場合 における無催告解除特約は、増改築がなされた時点で、もはや原状回復が見込めない場合も 考えられ、そのような意味において、無断増改築をした場合には(例えば、賃料の支払遅滞などと比して)賃借人の背信性が高いことを考えれば、無催告解除特約の有効性も肯定されやすいのではないか。

(2) 無催告解除としての「信頼関係破壊の法理」(特約がなかったり、または、特約の効力 が否定された場合であっても、なお、検討すべき視点) 

上記のような無催告解除特約の有効性とは無関係に、個別事情において、判例による「信頼関係破壊の法理」により、無催告解除が認めうる余地は、なお残されているといってよい。 本問において、Yの背信性を強調した上で、無催告解除が認められることを導き出すことも 考えられる。 

〔最判昭和 27 年 4 月 25 日民集 17 巻 8 号 1069 頁〕 

「およそ、賃貸借は、当事者相互の信頼関係を基礎とする継続的契約であるから、賃貸借の継続中に、当事者の一方に、その信頼関係を裏切って、賃貸借関係の継続を著しく困難なら しめるような不信行為のあった場合には、相手方は、賃貸借を将来に向って、解除すること ができるものと解しなければならない、そうして、この場合には民法五四一条所定の催告は、 これを必要としないものと解すべきである。

かなりくどくなってしまうが、誤解のないように補足しておきたい。上記(1)では、特約の有効性 (そもそもこの特約は有効か)について検討する必要があることを示し、そのうえで、それとは無関係に(特に、仮に特約が無効と評価された場合に)、上記(2)のように、さらに、無催告解除を認 めるための法理としての「信頼関係破壊の法理」を検討してほしい、というメッセージのつもりで書いている。つまり、【(1)まず特約の有効性のフィルターをかけ(有効であれば、そ れで無催告解除が正当化される)、それが無効であったとしても、(2)個別的な事例(事情)の中で、 信頼関係破壊の法理を用いたうえで、無催告解除が認められる場合がある】という枠組みである。 (1)と(2)は別次元の問題であることを、しっかりと認識してほしい。

 参考文献 

 ・中田裕康『契約法』(有斐閣)423~428 頁 

・山本敬三『民法講義Ⅳ-1』(有斐閣)472~487 頁 

・潮見佳男=道垣内弘人編『民法判例百選Ⅱ〔第 8 版〕(有斐閣)60 事件


表現の自由《名誉・プライバシー侵害》

今回は「名誉・プライバシー侵害」の諸問題について扱う。なお以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ[第8版](有斐閣)」を指す。

1.プライバシー侵害的表現  

2.名誉毀損的表現 

・視点:「表現の自由」(憲法 21 条 1 項)と「名誉権」(同 13 条)とが衝突した場合,その解決 のしかたについては,「刑法」という法律が一定の手がかりを示している。 

(1)名誉保護(憲法 13 条)の過剰?――本当のことをいっても名誉毀損になる(刑法 230 条) 

・刑法 230 条 1 項:「公然と事実を指摘し,人の名誉を毀損した者は,その事実の有無にかかわらず,3 年以下 の懲役若しくは禁固又は 50 万円以下の罰金に処する。」 

⇒「その事実の有無にかかわらず」とは,ある人の不名誉な事実を公表した場合,それが本当 であっても嘘であっても名誉毀損は成立する,ということである。たとえば,週刊誌が政 治家の不行跡を暴露する記事を掲載した場合,それがまったくのデタラメであれば名誉毀損になるのは当然であるが,それが本当のことであったとしてもやはり名誉毀損は(いちおう)成立する。 

・視点:①「真実」は常に「虚偽」よりも価値が高いわけではない。

 たとえば,孔子は,親の罪を隠すことが子の正しい道であると説いた。また,キケロは,ナチスに追われてい るユダヤ人(アンネ・フランク)を自宅にかくまっている家主は,その人をナチスに突き出すのではなく,「ユダ ヤ人は家にはいません」というべきであるとした。さらに,癌患者に対して病名を開示しなければならないかと いうと,これもやはりケース・バイ・ケースであり,本人に対して病名を偽ることも許される場合があると考え られている。子供から「大人の世界」を隠すこと,他人の私生活(プライバシー)を知ることを慎むことも,社 会の基本的なモラルに属する。本当のことだからといって言えば良いというものではない。

 ②また,身体の毀損(けが)などは,たいていは治療・入院などによって回復すること が可能であるが,名誉がいったん侵害されると,それを回復するのは相当に困難で ある。名誉が侵害されると,会社や学校,家庭などで快適な暮らしを営むことは不可能となる。刑法 230 条は,このような名誉(憲法 13 条)を最大限に保障しようとしたものである。 

(2)表現の自由(憲法 21 条 1 項)への配慮①――「公益性」・「真実性」(刑法 230 条ノ 2) 

・問題:もっとも,新聞記者が政治家の汚職などの不名誉な事実を記事にする場合,本当のこ とをいっても名誉毀損になるのであれば,安心して記事を書くことができなくなる。 その結果,マス・メディアの「表現の自由」や国民の「知る権利」も阻害されること になる。国民には,そのような記事を通じて政治家の情報を知り,次の選挙のための 判断材料を得る必要がある。そこで設けられたのが,次に示す刑法 230 条ノ 2 である。 

・刑法 230 条ノ 2 第 1 項:「前条第 1 項の行為〔=名誉毀損〕が,①公共の利害に関する事実に係り,かつ, ②その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には,③事実の真否を判断し,真実であることの証明があったときは,これを罰しない。」 

⇒このように,ある記事が他人の名誉を低下させるようなものであったとしても,それが① 公共の利害に関する事実(=社会の正当な関心事)であり,かつ②公益目的で書かれた場合(= 人格攻撃目的ではなく国民に重要な情報を知らせる目的など)には,③その内容が真実であることを証明できれば,名誉毀損は成立しない,とされた。これにより,新聞・テレビなどのメディアは, 政治家の不行跡(悪行)を安心して記事にすることができるようになり,メディアの表現の自由が一歩前進した。

(3)表現の自由への配慮②――「相当性」の法理:「夕刊和歌山時事」事件(最大判昭和 44・6・25, 百選 64 事件) 

・問題:①だが,これによって問題が完全に解消したわけではない。というのは,名誉毀損にならないのは,真実であることを「証明」した場合に限られており,実際の裁判に おいてはこの「証明」が相当に難しいことが多いからである。 

 ②たとえば,政治家が酔っ払ったうえで公道で乱闘騒ぎを起こした,という事実を記 事にするような場合であれば,それを見ていた多くの人が証人となることができる から,それが真実であることの「証明」はさほど難しくない。しかし,たとえば汚 職がらみの事件などの場合には,不適切な金銭の受け渡し行為等は陰で行なわれる ことが通常であるため,これを記事等にした側が「証明」することは相当に困難で ある。そのため,「真実であることの証明があったとき」という言葉を文字どおりに貫けば,記事にできる範囲は相当に限られるということになる。 

 ③そこで最高裁判所は,「夕刊和歌山時事」事件において,メディアの表現の自由にさ らに有利な判断を下し,この問題を解消した。 

・判旨:百選 64 事件の<判旨>を参照

⇒この判旨は,たとえば新聞記者が政治家の悪行を記事にする場合には,結果として真実で あると証明できなくても,真実であると勘違い(誤信・錯誤)したことに相当に理由がある場合(たとえば記者としての職業的良心を尽くし,きちんと取材をした上で書かれたものである場合など)には,名誉毀損は成立しない(そのような場合には犯罪を犯す故意がないから),としたものである。

 以上の話は,「刑法」を勉強した後に帰ってくると,さらに理解が深まるかと思う。ここでは深入りしないが, 念のため,通説的な見解に従って簡単に刑法上のキーワードだけを指摘しておくと,(1)の刑法 230 条は名誉毀損罪の「構成要件」であり,(2)の刑法 230 条ノ 2 は「違法性阻却事由」(表現の自由の行使として違法性がな くなる場合の条件),(3)夕刊和歌山時事事件の相当性の法理は「責任」(責任故意の阻却。違法性阻却事由に関 する錯誤:(2)で定められた違法性阻却事由――真実性による違法性阻却――がないのにあると勘違いした), の問題である。

* なお,夕刊和歌山事件のような「事実」の指摘による名誉毀損の場合とは異なり,「意見」(論評)の公 表による名誉毀損の場合には,真実性の証明の仕方に若干のアレンジが加えられる。すなわち,ある公立 学校の教師の教育方針(通知表を生徒に交付しないことを要求する活動をしていたこと)に対し,その教師を非難するビラ(その教師が「有害無能」であるといったことが書かれていた)を大量にばらまくことが名誉毀損にあたるかが争われた事件で,最高裁判所は次のように述べた。すなわち,その表現物が①公共の利害に関する事実であり,②公益目的がある場合には,③その意見ないし論評の前提としている事実の重要な部分について真実の証明があった時は,④人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての範囲を超えていなければ,表現者は責任を負わない,という(最判平成 9・9・9,百選 66 事件)。これは,アメリカにおける「公正な論評の法理」の影響があるといわれている。 

ちなみに,この判決は,「民事事件」としての名誉毀損(損害賠償)が問題となった事件であり,ここで説明している「刑事事件」としての名誉毀損(刑罰を科する場面)とは異なる。とはいえ,上で示した刑法 230 条の 2 や夕刊和歌山時事事件の判例は,民事事件として名誉毀損が問題となった場合にも同様に 使われている(最判昭和 41・6・23)。

(4)表現の自由への配慮③――「公共の利害に関する事実」の範囲:「月刊ペン」事件 (最判昭和 56・4・16,百選 65 事件) 

⇒「公共の利害に関する事実」には,公務員や公職選挙の候補者などだけでなく,社会に影 響力のある私人の行状が含まれることもある。 

* なお,学説では,「現実の悪意の法理」というアメリカの判例理論を導入すべきだという見解もある。 この法理は,公務員や公人(著名人)に対する名誉毀損的な表現が違法になるのは,次のような場合に限 られるというものである。すなわち,①その表現が虚偽であったことを表現者が知っていたか,あるいは 虚偽であるかどうかを全く気に掛けずに表現した場合,②しかもその記事が虚偽であることを,公務員・ 公人の側が証明できた場合,である。 アメリカでは,表現の自由と名誉権との調整法理として,日本の刑法 230 条ノ 2 のような法律上の明確 な規定がなかったため,この「現実の悪意の法理」が判例の上で発展させられてきた。このアメリカ法理 は,基本的には,その表現の対象となった人物(「公務員ないし公人」か,それとも「私人」か)に着目 するものであるが,日本の法制度(刑法 230 条ノ 2 など)の上では,上記のように,ポイントとなるのは, その表現物の内容(「公共の利害に関する事実」・「社会一般の正当な関心事」か)である。「公人」か「私人」かという点は,この点を判断する際の重要な要素ではあろうが,決定的な要素ではない。また,「公 人」という言葉は,日本の場合には法令用語ではない。他方で日本の場合には,記事が真実であることを 表現者が証明することが建前であるが,アメリカの場合には,記事が虚偽であることを書かれた側(公務 員・公人)が証明する必要がある。その限りではアメリカ法理のほうが,表現の自由にとってプラスになるともいえる。もっとも,アメリカの場合には,「公人か私人か」という点が重要な意味をもつが,日本の法制度では,私人の行動であっても「公共の利害に関する事実」に当てはまれば,表現の自由が優越しうる。その限りでは,日本の法制度のほうが表現の自由に有利に作用しうる場面もあると解する余地もある(ただしアメリカでも日本と同様に「公的関心事」という観点から判断を示した判例もあるが)。 

ともあれ日本の通説的な見解は,日本ではすでに刑法 230 条ノ 2 があることなどを理由に,このアメリ カ理論の直輸入にあまり積極的ではない。

芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店,第 7 版,2019 年)200 頁。アメリカ判例の現実の悪意の法理に ついて関心のある方は,松井茂記『表現の自由と名誉棄損』(有斐閣,2013 年)を参照。

(2)損害賠償(民法 709,710 条)――「宴のあと」事件・「逆転」事件など 

・視点:①ある表現によって名誉・プライバシーを侵害された者は,それによって生じた心の 傷(=精神的損害)の埋め合わせ(=慰謝料)を請求することができる。 

 ②(1)の刑罰の場合と違い,自力で事件を裁判所に持っていくことができる。また, 「名誉」だけでなく「プライバシー」の場合にも使える。 

 ③裁判になった場合,表現者と被害者(書かれた側)のどちらが優位するかは,

④注意点としては,プライバシー侵害の場合は,名誉の場合とは異なり,表現内容が 「真実」かどうかは,結論には影響しないといわれている。名誉の場合には,表現 内容が「真実」であれば表現の自由が勝つこともあるが,プライバシーの場合には, 「真実」だから表現の自由が勝つ,とは言いにくい(むしろ真実であるほうが被害者のダメージは大きいといわれる)。 
 ⑤ただし,この損害賠償は,最大で 100 万円が「相場」だといわれてきた。その一方 で,たとえば大手の週刊誌だと,純粋な売上高は週あたり数億円にのぼるといわれ ている。そのため,出版者としては,100 万の損害賠償さえ覚悟すれば,名誉毀損 的・プライバシー侵害的な記事を掲載することをためらう必要はない,ということ にもなりかねない。そこで,最近の裁判例のなかには,損害賠償の額を高くし,これによって一定の抑止効果を期待しているものもある。 
たとえば,大原麗子事件(東京高判平成 13・7・5)という事件がある。事件の概要は次のとおり。週刊誌「女性自身」は,平成 12 年 3 月 7 日・14 日合併号において,「何が起きた!?大原麗子」,「犬と大げんか」,「トラブル続 出でご近所大パニック」,「隣家を水びたし」,「あの女は雪女」というタイトルのもと,女優の大原麗子氏に関す る記事を掲載した。これに対し大原麗子氏は,名誉毀損を理由として,1000 万円の損害賠償を求めて「女性自身」 を発行している光文社を訴えた。東京高等裁判所は次のように述べて,この 1000 万円という異例の高額な損害賠償を弘文社に命じた。すなわち,①この記事は真実でなく,真実であると信じるに足りる相当の理由もない,② また,光文社は,この記事を載せた週刊誌で相当の利益をあげており,多少の損害賠償金の支払いでは,このよ うな違法行為の自制は期待できない,③したがって,1000 万円の慰謝料の支払いを命ずる,と。 
 ⑥だが,抜本的な解決のためには,法による規制ではなく,メディア自身の職業倫理 の向上と,「覗き見的好奇心」を押さえることができる国民個々人の倫理観の向上が 重要だという考えかたも,有力に主張されている。たとえば,清原対「週刊ポスト」事件(東京高判平成 13・12・26)という事件がある。週刊誌「週刊ポスト」は, 当時読売ジャイアンツに所属していた有名選手である清原和博氏に関する記事を掲載した。そこには,「やっぱり! “虎の穴”自主トレ清原が『金髪ストリップ通い』目撃」とのタイトルのもと,清原氏が,アメリカ合衆 国での自主トレーニングの期間中に,ストリップバーで羽目をはずして飲酒・遊興したことなどが掲載されてい た。これに対して清原氏は,名誉毀損を理由として,「週刊ポスト」を発行している小学館を訴えた。第 1 審の東 京地裁は,この記事が真実であると信じるに足りる相当の理由がないとして,1000 万円という高額の損害賠償を 認めた。この判断を不服として,小学館は東京高裁に訴えた。東京高等裁判所は次のように述べ,1000 万円は損 害賠償として高額過ぎると判断した。①この記事は,肉体改造という当初の目的は早々に挫折したとの事実を, 清原氏を愚弄する表現を用いて,記者が直接に見聞きしたかのように具体的・断定的に報道するものである。そ して,小学館の側は,この記事を掲載するについて,清原氏に対して一切取材をせず,その取材内容はきわめて ずさんなものである。②もっとも,この記事は,清原氏の野球選手としても資質を非難するものではあるが,それ以外の社会生活上の人格を非難するものではない。そのため,損害賠償額は,600万円が相当である。③一部の新聞や週刊誌による人権侵害や私事暴露的記事は目に余るものがあり,これを抑止するためには高額の慰謝料を命ずるのが効果的であることは否定できない。しかしそれは,法律の解釈としては限度がある。また,低俗な覗き見的好奇心からこのような報道を受け入れる社会の民度ないし人権感覚を問題とすべきであるという視点もありうる。したがって,1000 万円もの賠償額を認めるわけにはいかない。日本の損害賠償は,たとえばア メリカとは異なり,あくまでも被害者(書かれた側)の心の傷を埋め合わせるという制 度であり,加害者に対する「懲罰」という意味合いは基本的に含まれていない。法 ができることには限度がある,ということである(「法は良心を義務付けない」,「良心を義務付けるの は倫理だ」,法の「外面性」と倫理の「内面性」などといわれる)。
(3)謝罪広告(民法 723 条)・反論文の掲載 ――サンケイ新聞事件(最判昭和 62・4・24,百選 76 事件)
(4)差止め(参照,民事保全法 23 条 2 項) 

・視点:①損害賠償は,名誉・プライバシーに対する侵害が実際に生じたあと,その埋め合わ せを金銭で行なう,というものである(事後規制・事後抑制)。 

 ②だが,被害者の救済のためには,そのような名誉に触れる記事の流通をあらかじめ ストップしたほうが,より直接的・効果的である。そのための制度として,裁判所 による出版等の「差止め」がある。 

 ③もっとも,このような事前の「差止め」は,表現者の側からしてみれば,事後の損 害賠償に比べ,「表現の自由」に対する規制の度合いがより大きい。国民としても, ある情報が自分の手にまったく届かなくなってしまうわけであるから,「知る権利」 の侵害の度合いも大きいということになる。そのため,どのような場合にこの差止めが認められるかについては,慎重な考察が必要となる。 

ア 名誉毀損と差止め――北方ジャーナル事件(最大判昭和 61・6・11,百選 68 事件) 

・争点:裁判所が雑誌の出版を差し止めることは,「検閲」(憲法 21 条 2 項)にあたり許されない のではないか,仮に検閲にあたらないとしても,出版差止めは「事前抑制」であり, 容易に認めてはならないのではないか。 

・判旨:(⇒百選を参照のこと) 

・分析:①「検閲」(憲法 21 条 2 項)の定義は,税関検査事件(百選 69 事件)この事件は,ある日本人が欧米からポルノなどを注文し郵送してもらって,税関にひっかかった,というもの。 その注文者は,この税関検査が検閲にあたり許されないと主張した。裁判所はこの事件で,憲法が禁止する検閲 を次のように定義した。すなわち,検閲とは「行政権が主体となって,その思想内容等の表現物を対象とし,その全部又は一部の発表の禁止を目的として,対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に,発表前にその内容を審査した上,不適当と認めるものの発表を禁止することをその特質として備えるものを指す」((最大判昭和 59・12・12,百選 62 事件))。が示しており,裁判所による差止めは検閲にはあたらないとした。なお,(現在では法改正がなされているが)裁 判所による仮処分は,特にこの事件のように当事者,とりわけ表現者の側の言い 分を聞く手続き(債務者審尋)を経ないで行われるような場合には,司法権というよりも行政権の行使(行政処分)に近いという指摘も有力であることには注意(その意味 で,差止めは裁判所が行う作用であり行政権ではないから検閲ではない,と単純に言えるかどうかについては,議論の余地もある)。 

 ②そして,裁判所による差止めは,検閲ではないとしても,損害賠償(事後規制) とは異なり,表現物の流通をストップさせる重大な処分である。この点について 最高裁は,こうした「事前抑制」については,「思想の自由市場」への影響が大きいことや,憲法 21 条 2 項および同 1 項の双方の趣旨に照らし,「厳格かつ明確な要件」が必要だとした。 

 ③そのうえで,差止が認められる場合の要件(不真実・公益目的欠如の明白性,重大にして著しく回復 困難な損害)を示している。ただしこの要件は, 

  (a)あくまでも「公共の利害に関する事実」に関わる表現物を差止める場合の要件であること(刑法 230 条の 2 に由来) 

  (b)「原則」として差止めが禁止されるのも,この「公共の利害に関する事実」 に関する表現物だからであり,事前抑制だからという一般的な理由ではないこと 

  (c名誉毀損を理由とする差止めの要件であること

という限定がかかっており,その射程や判例の読み方には,よくよく注意する必要がある。

イ プライバシー侵害と差止め――「石に泳ぐ魚」事件→石に泳ぐ魚事件の詳細はこちらで

・分析:①プライバシー侵害を理由とする出版差止が認められる場合の要件について,「石に泳ぐ魚」事件の最高裁判決は明確に語らなかった。 

 ②なお,この事件では,プライバシー侵害だけでなく名誉毀損(や名誉感情)もあわせて 問題になっていた。また,「北方ジャーナル」事件判決は,「公共の利害に関する事 実」を含む表現物を差し止めるための要件を提示したものであるのに対し,この「石に泳ぐ魚」事件では,「公共の利害に関する事実」を含まない表現物の差止めが問題 となった点にも注意のこと。 

 ③この二つの判例の関係を考察した重要な下級審裁判例として,「週刊文春」事件決定 (東京高決平成 16・3・31)がある。

雑誌・週刊文春が,衆議院議員の田中真紀子氏の長女 X(政治家ではない)の離婚に関する記事を掲載し,X がプライバシーの侵害を理由に出版差止めを求めた事件。東京地裁・東京高裁ともに,この記事は,①公共の利 害に関する事実を含まないこと,②公益目的の欠如が明白であること,③重大で回復困難な損害を X に与えること,などを理由に,出版差止めを認めた。この差止めの要件①~③は,「北方ジャーナル」と「石に泳ぐ魚」の最 高裁判決を参考に,特にプライバシー侵害という点にも着目しながら。東京地裁・高裁が導きだしたものである。 なお「北方ジャーナル」とは違い「真実性」の要件が外れているのは,問題となった権利が名誉ではなくプライ バシーだから(真実であるほうが傷つく)である。ただし細かく言うと,この要件で本当に良いのかどうかとい う問題も残っている。

*最新判例――「忘れられる権利(?)」(最決平成 29・1・31,百選 63 事件) 

・分析:①検索事業者の Google に対し,自己の過去の犯罪歴に関する記事等が掲載されたウェブ サイトの URL 等を,検索結果から削除することを求めた事件において,最高裁は, 

(A)検索事業者の表現の自由と, 

(B)前科歴を有する者の人格権・人格的利益とを 

比較較量」して判断するとした。 

②その衡量の際,情報の提供行為が違法になる(削除を求めることができる)のは,(B)人格権・ 人格的利益が(A)表現の自由に優越することが「明らか」な場合だという基準を定 立した。表現の自由の側に若干有利な基準になっているようにも読める。 

③その理由について判例は詳しく述べていないため,断定的なことは述べられず,推測 レベルにとどまらざるを得ないが,いくつかの例として次のような可能性があげられうる。すなわち, 

 ・「情報流通の基盤」としての検索事業者の表現の自由を重く見ている 

・いったん掲載された記事の削除等は,純粋な事前抑制ではないが,損害賠償のような 事後規制とも違い,表現物の流通をストップさせることになるため,表現の自由への制約の程度が大きいという判断が前提になっている 

・削除を行うべきかどうかは,第一次的には国家権力ではなく,私人である検索事業者 の判断によるものとなる場合もあり,裁判所による確定判決がない段階で,法の専門 家ではない検察事業者の判断で,いわば私的な検閲として削除をすべき要請が出てく るのは,プライバシー等の侵害が「明らか」な事案に限定すべきだとも解されること 

等々である。 

なお,最後の点は,たとえばインターネット上の掲示板や SNS 等での不適切な書き込みに対し,プロバイダや掲示板の管理者 等の私人が削除を行うべきなのかどうかという問題のなかで,同様に議論されることもある。) 

 ④なお,よくよく考えてみると,Google が提供している検索サービスは,Google 自身の 表現行為といえるのか,これが表現の自由として保障されるのか,議論の余地もあり うる。この点,最高裁は,Google の方針に基づいた検索結果が表示されるという点は Google 自身の表現行為であり,また Google は,インターネットを利用する人にとっ て,自由な情報流通を可能にする場を作り出しているという点でも表現の自由として保障されるという。 

⑤そして,この事件では,削除等を求めることはできない((b)の負け)という結論を出す 際,「公共の利害に関する事実」という視点が登場している。 

⑥なお,こうしたネット上での自己の犯罪歴を消してもらう権利は,EU 法等に由来する 「忘れられる権利」という言葉で呼ばれることもある。だが最高裁は,この言葉を用いず,「逆転」事件判決などを参考に,これまでの判例上の名誉・プライバシーの中の一つとして扱っている。

(ちなみに,この事件で記事の削除等を求めている人は,国を相手にプライバシー権をもちだしているわけではなく,私人であ る Google を相手に主張しているため,ここで引用されているプライバシー判例は,憲法上のプライバシーではなく,私法(民法 等)上のプライバシーが,直接は関わる事案である。)

表現の自由の意義

 ここから憲法の人権分野で一番重い表現の自由を概説していく。以下の「百選」は「憲法判例百選Ⅰ(第8版)」を指す。

1.素材となる事件――小説「石に泳ぐ魚」事件(最判平成 14・9・24,百選 62 事件) 

(1)事件のあらまし ⇒百選 62 事件の<事実の概要>および以下の画像を参照 のこと。










(2)当事者の主張 

ア X さんの主張 

・小説「石に泳ぐ魚」には,自分の私的なことがらがたくさん記述されており,この小説の公表に よってプライバシー名誉(憲法 13 条)が傷つけられた。 

 プライバシーや名誉は,憲法にはっきりと権利として書かれているわけではない。しかし,裁判所や学者は, このような「憲法に書かれていない権利」も,憲法によって保護されることがある,と考えている。そしてその ような「書かれていない権利」の根拠として,憲法 13 条の「幸福追求権」がもちだされる。 

イ 柳氏(Y1)と新潮社(Y2)の主張

 ①この小説のテーマは,顔面に腫瘍がある女性が「困難に満ちた<生>をいかに生きぬくか」と いう人間にとって普遍的かつ重要なものである。これは社会一般の正当な関心事であり,「石 に泳ぐ魚」は表現の自由(同 21 条 1 項)によって特に保障されるべき重要な表現物である。 

②裁判所が出版物の販売を差し止めることは,憲法が禁止する「検閲」(同 21 条 2 項)であり許されない。また,仮に検閲にあたらないとしても,裁判所による出版差止めは「事前抑制」(= 表現物が世の中に出る前に,その公表をストップさせる重大な処分)であるため,よほど悪質な表現物でない限り, 差止めを行なうことはできない。「石に泳ぐ魚」は,そのような悪質な表現物ではない。 

2.考えてみよう 

(1)基本的知識の確認

 ア なぜ表現の自由は重要なのか?――表現の自由を支える価値 

 ①自己実現の価値:個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させる(個人の尊重。憲法 13 条)。 

 ②自己統治の価値:言論活動によって国民が政治的意思決定に関与する(国民主権。前文 1 段・1 条)。

 ⇒個々の国民が,①自由に人格を形成(自己実現)し,②主権者として国の政治に関する判断 をする(自己統治)ためには,一定の知識と判断力を必要とするが,それは,国民個々人が 自由に自己の意見を述べ,知識を交換することによって初めて可能になる。これを法的 な権利として保障するのが,表現の自由である。 

芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店,第 7 版,2019 年)180 頁。 

 ③思想の自由市場:不快な内容の言論や,誤った言論であったとしても,これを国家権力が 抑圧すべきではなく,その言論を批判する別の言論(=対抗言論)によって 対応すべし。

その根拠として,次の点が挙げられる。すなわち,国家権力によって抑圧された言論が実は真実である可能性 もあり,この場合には人々は,国による言論の抑圧のせいで真実を知る機会を奪われてしまう。また,もし抑圧 された言論が誤ったものであったとしても,その誤った言論に対し真実を対抗させることによってよりはっきり と真実を知る機会を奪われる。かくして,いずれにしても国家による言論の抑圧は害をもたらす,という点であ る(J.S.ミル『自由論』を参照)。このように「思想の自由市場」論は,「正しい見解に到達するための最も良い方 法は,さまざまな意見を自由に交わし闘わせることである」と考える。これは,「規制緩和」と似た発想である。 「規制緩和」とは,国家が悪い商品の流通を規制せず,市場の自由にまかせていたとしても,消費者はよりよい 商品のみを買い,悪い商品は売れずに市場から消えるはずであるから,商品の生産者はよりよい商品を作るよう 心がけるようになり,結果として市場には常によりよい商品が並ぶことになるはずだ,という発想である。これ と同じように,言論・表現についても,これを国が取り締まらなくても,国民の自由に任せておけば,「悪い」言 論は世の中から消え,「良い」言論だけが最終的に残るはずだ,と考えるのが,「思想の自由市場」である。この 点も含め,そのほかの表現の自由を支える価値については,最近の文献として,橋本基弘『表現の自由』(中央大学出版部,2014 年)を参照。

 ⇒(若干応用だが)特に,先に挙げた「検閲」や「事前抑制」のほか,「表現内容規制」が原則として許されないという考えかた(あるいは「表現内容中立規制」であってもその合憲性については裁判所が厳しく審査 すべきだといえる場面の根拠)につながりやすい。

イ 表現の自由の内容 

(ア)情報を伝える自由――情報の「送り手」の自由 

(イ)「知る権利」――情報の「受け手」の自由 

 a)意義

 ・判例:「報道機関の報道は,国民の『知る権利』に奉仕する」(博多駅事件決定)。 

・学説:①表現の自由は,情報の「受け手」の存在を前提としている。 

マス・メディアの発達により,情報の送り手(メディア)と受け手(一般国民)の 分離が顕著に。 

③情報の受け手(国民)の側から表現の自由を再構成する必要から,知る権利は憲 法上の表現の自由としての保障を受ける。 

・内容:①国民の「情報を入手する自由」と,②マス・メディアの「取材の自由」

 ・注意点:「知る権利」はあくまでも「国民」の知る権利であり,メディアが興味本意で知 りたいことではない。その意味で,たんなる覗き見的な好奇心の対象ではなく, 政治・社会問題などの「社会一般の正当な関心事」が,知る権利として強く保 護される。 

(b)法的性格

①自由権的性格 ⇒国家により情報入手を妨げられない権利 

②社会権的性格 ⇒国家に対し,情報公開を求める権利。情報公開請求権。 

 ・通説:情報公開請求権は「抽象的権利」(法律や条例などによる具体化がなければ,裁判において主張するこ とができない権利)。ちなみに,2001 年に情報公開法が施行されたが,この法律には 「知る権利」という文言は用いられていない。 

 ・判例:最判平成 6・1・27(百選 78 事件)⇒情報公開をめぐる初の最高裁判例として注目されたが, 特に憲法論(知る権利)についてこの判決は詳しく語っていない。 

(ウ)報道の自由・取材の自由――博多駅事件(最大決昭和 44・11・26。百選 73 事件。今回は詳述しない) 

・問題:表現の自由は,思想の自由(19 条)を基礎に置く権利として,「思想・意見」を表明す ることを保障するものであり,「事実」の報道は表現の自由で保障されないのでは? 

・判例:①「報道機関の報道は,民主主義社会において,国民が国政に関与するにつき,重要 な判断の資料を提供」するものである。したがって,「事実の報道の自由は,表現の自由を規定した憲法 21 条の保障のもとにある」。 

 ②「報道のための取材の自由も,憲法 21 条精神に照らし,十分尊重に値する」。

 ・視点:①報道の内容を政府が自由にコントロールできるとすれば,政府に都合の悪いニュー スは差し止められることになり,国民は国の政治について十分な情報が得られず, 民主主義は崩壊する。報道の自由は「民主主義の生命線」である。

 ②報道は,取材・編集・公表という一連の行為によって成立する。したがって取材は, 報道にとって不可欠の前提をなす(が,判例は,「尊重に値する」というのみで「保障される」とは明言していない)。 

*若干の応用――「知る権利」の周辺:判例の用語法 

・視点:①判例は,「知る権利」という言葉について,情報の受け手の「権利」という意味で用いる ことは必ずしも多くなく,マス・メディアの表現の自由(報道の自由)が重要だということ を強調する脈絡で,知る権利という言葉を使う(上述の博多駅事件など)。 

②他方,情報の受け手の権利それ自体が正面から扱われる際には,よど号判決(最大判昭和 58・ 6・22。百選 14 事件)以来,「様々な意見,知識,情報等に接し,これを摂取する自由」という表現が用いられる。そしてこれが,「知る自由」という言葉で略記されることもある(税関検査事件。最大判昭和 59・12・12.百選 69 事件) 

(X)情報の送り手の権利(とりわけマス・メディアの権利) 

 ①「報道の自由」:憲法 21 条 1 項の「保障のもとにある」(博多駅事件) 

     ↓(奉仕)

 「知る権利」:国民の国政参加・民主主義のための判断材料の提供(博多駅事件) 

 ②「取材の自由」:憲法 21 条 1 項の趣旨に照らし十分「尊重に値する」(博多駅事件) 

(Y)情報の受け手の権利 

①「様々な意見,知識,情報等に接し,これを摂取する自由」:憲法 21 条の規定,趣旨からその「派生原理」として当然に導かれる(よど号事件,レペタ事件(最大判平成元・3・8.百選 72 事件)) 

=「知る自由」(税関検査事件判決が,よど号事件,博多駅事件を引用して用いた表現) 

 ②「筆記行為の自由」:憲法 21 条の規定の精神に照らして「尊重に値する」が「直接保障され ているわけではない」(レペタ事件) 

(エ)アクセス権・反論権――サンケイ新聞事件(最決昭和 62・4・24,百選 82 事件)⇒略

アクセス権・反論権とは,国民がマス・メディアに対して,自己の意見の発表の場を要求する権利だと定義さ れている。なお,政府に対し情報公開を求めることや,裁判所に訴える道のことを「(政府や裁判所に対する)アクセス権」と呼ぶこともあるが,前者は「知る権利」,後者は「裁判を受ける権利」(32 条)の問題であり,ここ で扱っているアクセス権とは別物である。このようなアクセス権は,たしかに国民の表現の自由にとってはプラ スになる側面もある。しかし,マス・メディアにとっては,その反論を掲載・公表するためのスペース・時間を 確保しなければならなくなり,そのぶん他に伝えたい情報が伝えられなくなってしまう。また,常に言われた側 (国民)の反論をマス・メディアが公表しなければならないということになると,政治家や有名人に対する批判 記事を書きにくくなってしまう(萎縮的効果)。つまり,マス・メディア自身の表現の自由(報道の自由)へのダ メージも大きい。そのため,このようなアクセス権は,憲法からは直接導くことはできず,法律による具体化が ない限りは認められないと一般に考えられている。最高裁判所も,上記のサンケイ新聞事件で,たとえばマス・ メディアが他人の名誉棄損を行い,それが違法といえる(不法行為(民法 709 条)が成立する)場合,その名誉 を回復する手段として,民法 723 条を根拠に,このような反論権・アクセス権を認めることはできるとしつつも, こういう名誉棄損が成立する場合以外は,憲法を直接の根拠にアクセス権を認めることはできない(法律による 具体化等が必要)と述べている。なお,民法 723 条は,名誉を回復する手段を裁判所が命じることができると定 めている法律である。前回扱った謝罪広告もこれに基づいて出される。この謝罪広告を求める権利や,民法 723 条に基づく反論権は,表現の自由というよりも,名誉権・人格権(憲法 13 条)を究極の根拠にする権利だと構成 するほうが自然かもしれない。

ウ 表現の自由の限界――「自由」とはいっても,何を言ってもよいわけではない 

・視点:①もっとも,どんなに表現の自由が重要だといっても,これを無制限のものだと考え ることはできない。表現活動によって重大な害悪がもたらされることもある(大声で の夜中の演説,他人の家に政治ビラを張る,など)。表現の自由にも,制約が必要な場合がある。 

 ②というよりも,表現の自由だけでなく,日本国憲法が保障する自由・権利(=人権) には常に限界がある。「無制限の権利」・「絶対の権利」というものはない。

*人権の限界について:基礎編――比較衡量の重要性(応用編:二重の基準・三段階審査の詳細は後で) ⇒ 憲法 12 条後段(「濫用」の禁止,「公共の福祉」),憲法 13 条後段(「公共の福祉」) 

(ア)濫用とは 

・内容:ある人権をある局面のもとにおいて保障した場合,これによって得られる利益と, これによって失われる利益(=「公共の福祉」)とを比べ, ① 得られる利益が重い場合→人権は保障される。 ② 失われる利益が重い場合→「濫用」にあたり人権は保障されない(人権の限界)。

 ⇒このような頭の使い方(理論)のことを,比較衡量と呼ぶ。 

(イ)類型 

①人権と他者の権利との衡量(例,表現の自由とプライバシーとの衝突。「石に泳ぐ魚」事件はこのパターン) 

②人権と社会的利益との衡量(例,表現の自由と国家秘密との衝突。「西山記者事件」(後述)はこのパターン) 

⇒このような,ある人権(たとえば表現の自由)とぶつかっている利益,つまり他者の権利会的利益(公共の利益)のことを,「公共の福祉」という。 

 なお,従来の教科書類では,「公共の福祉」とは,「人権相互の矛盾・衝突を回避するための実質的公平の原理」 であり,人権を制約できる公共の福祉とは「他者の権利」だけだ(「社会全体の利益」は公共の福祉ではない)と いう主張がなされてきた(一元的内在的制約説)。芦部・前掲書 101 頁など。しかし少なくとも最高裁判所は,公共の福祉の内容を「他者の権利」には限定していない。また,最近の学説では,公共の福祉の内容として,他者 の権利だけでなく,さまざまな社会的利益も含めて考える見解が有力になりつつある。学生向けでは,宍戸常寿 『憲法解釈論の応用と展開』(日本評論社,2011 年)5 頁,曽我部真裕『憲法論点教室』(日本評論社,2012 年) 69 頁以下〔同執筆〕などを参照。くわしくは,内野正幸「国益は人権の制約を正当化する」長谷部恭男編『リー ディングズ現代の憲法』(日本評論社,1995 年)39 頁,長尾一紘『基本権解釈と利益衡量の法理』(中央大学出版 部,2012 年)81 頁以下なども参照。また,そもそも通説的な見解自身,総論レベルでは「人権を制約できるのは 他人の人権のみ」といいつつ,各論レベルではこの見解を貫いていない。たとえば公務員の政治活動(憲法 21 条) や労働基本権(同 28 条)は,いま法律で厳しく制限されているが,この制限を正当化する公共の福祉とは何かと いう点につき,通説的見解は「憲法が公務員関係の存在と自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること」 だとしている。少なくともこれが「他者の権利」ではないことは明らかであろう。

(ウ)注意点 

① 裁判は,利益と利益との衝突の場である。裁判所の判断(=判例)を読むときには,その事件で,当事者がどのような憲法上の権利・利益を主張し,それに対して反対の当事 者がどのような利益を主張しているのかをまず見極めることが大事である。 

② そして次に,その対立している双方の利益を秤に載せて,どちらがより重いのかを判 断することが必要となる(比較衡量)。 

③ その際に注意しておくべきことは,それらの利益のうち,どちらが重いのかはあらか じめ決まっているわけではない,という点である。「常に」表現の自由が優位するとか, 「絶対に」公共の福祉(=他人の権利や社会的利益)が優位するなどということはありえない。 どちらが勝つかは「ケース・バイ・ケース」だ,ということを意識しておくことが重要である。 

④ ただし,表現の自由は,先に述べたように非常に重要な人権なので,「原則として」表現の自由が優位する,と考えることはできる。「表現の自由の優越的地位」とか「二重の基準の理論」などと呼ばれる(もっとも,その場合でも,表現の自由が「絶対」に優位するわけではないことに注意。)。なお,学者の多くは,この「比較衡量」という考え方に批判的であるが。 その理由として,比較衡量論だと裁判の結論が裁判官の個人的な価値判断に左右される恐れがあること,個人 の権利と社会的利益を漠然と秤にかけると後者のほうが重くなりがちであること,などが挙げられている。芦部・ 前掲書 202 頁。 裁判所は基本的にこの「比較衡量」という考え方にしたがって裁判をしている。 

(2)事件(「石に泳ぐ魚」事件)の解決のしかた 

ア 最高裁判所はどう判断したか。⇒百選 62 事件の<判旨>を参照。 

イ 理解のポイント

・視点:

①この事件には,日本国憲法の目から見ると,柳氏の主張している表現の自由(憲法 21 条 1 項)と,X さんが主張している名誉・プライバシー(憲法 13 条)のどちらが重いの か,という問題が含まれている。より細かく言うと, 

ア)表現の自由とプライバシーが衝突する場合,これをどのように解決すべきか 

(イ)表現の自由と名誉が衝突する場合,これをどのように解決すべきか。 

(ウ)名誉・プライバシーを救済するために,特に裁判所が出版物の差止めを行う ことは,憲法の禁止する「検閲」(憲法 21 条 2 項)にあたるのではないか 

という問題が含まれている。ここでは(ア)について検討する。 

 ②それでは,表現の自由とプライバシーという二つの権利・利益がぶつかった場合, これをどのように解決すべきか。考え方としては,次の三つの可能性がある。 

 (ⅰ)常に表現の自由が優位する 

 (ⅱ)常にプライバシーが優位する 

 (ⅲ)ケース・バイ・ケースである 

 ③最高裁判所は,(ⅲ)の考え方をとっていると思われる。つまり,表現の自由とプラ イバシーのどちらが重いのかは,あらかじめ決まっているわけではない。 

 ④最高裁によれば,基本的には,ある表現物が公共の利害に関する事実ないし社会一 般の正当な関心事である場合には,表現の自由のほうがプライバシーよりも重いと 判断されうる。 

 ⑤この「石に泳ぐ魚」事件では,その小説が「公共の利害に関する事実」を含まないものであったため(さらに X のプライバシー侵害の程度が重大であるため),X さんのプライバシーの ほうが重いと判断された。このことの意味を,次に別の具体例を見ながら確認する。 

3.表現の自由とプライバシーとの衝突――特に小説表現に関して 

1)総説

 ・視点:

①いわゆる「私小説」の伝統が根強い日本においては,小説(や映画)などにおいて, 実在の人物や現実のできごとが素材として取り上げられることがしばしばある。そして,その小説等の登場人物のモデルとされた人にとって,公表して欲しくない私 的な事柄がその小説に含まれている可能性があることは否定できない。そのモデル とされた人は,自らのプライバシーの侵害を理由として,心の傷(=精神的損害) の埋め合わせ(損害賠償・慰謝料)や,その小説の出版差止めを求め,裁判所に訴えを起こすことがある。日本におけるプライバシー裁判は,小説表現に関するもの が多い。 

②このような場合には,作家・出版社の芸術表現の自由(憲法 21 条)と,モデルと された人のプライバシー(憲法 13 条)が衝突するため,その調整が必要となる。 この両者の要請をどのようにおこなうべきか――「比較衡量」――が重要な問題となる。 

③その調整・衡量の際に留意しておくべき点は,上記の通り,次の 2 点である。 

(ⅰ)その表現物が「社会の正当な関心事」である場合には,国民の「知る権利」の 要請が働くため,表現の自由が原則として優位することとなる(「石に泳ぐ魚」のほか, 以下に見る「逆転」事件などは,「社会の正当な関心事」が含まれていないと判断されたため,表現の自由の要請が後退し ている)。 

(ⅱ)他方,その表現物によってもたらされるプライバシー侵害の程度が重大である場合には,プライバシーの保護の要請が優越しうる(たとえ「社会の正当な関心事」が含まれている場合でも,プライバシーが優位することもありうる。以下の「宴のあと」など)。

 <なお,小説表現・モデル小説に特有の問題として……> 

*その表現物が芸術作品であること,あるいは芸術的な価値が高いことを理由として,モデルとさ れた人のプライバシーよりも優先するといえるかどうか,という問題がある。この問題は,芸術 的価値があると評価されている性表現を取り締まることが妥当か,という問題と共通する部分が あるので,後に性表現を書く際にも取り上げる。ちなみに,この点について「石に泳ぐ魚」事件の第二審を担当した東京高等裁判所は次のようにいう(最高裁 は特に触れていない)。「現実に題材を求めた場合も,これを小説的表現に昇華させる過程において,現実との切 断を図り,他者のプライバシーなどを損なわない表現をとることができないはずはない。このような創作上の配 慮をすることなく,小説の公表によって他者の尊厳を傷つけることになれば,その小説の公表は,芸術の名によ っても容認されないのである。文学作品が人間を描き,これが多数の人々に読まれることは,人々の人間存在に ついての認識の内容を豊かなものとする。このことの社会的価値を否定してはならないことはもちろんである。 しかし,上で述べたような配慮をすることなく,小説の公表によって他者の尊厳を傷つけるようなことがあれば, 法的に責任を負うのは当然のことである。」 

*また,モデル小説に固有の問題として,小説の登場人物と実在の人物が同一の人物だと特定 できるか(同定可能性),という問題がある。もしこの同定可能性が否定され,“この小説は 実在の人物とは無関係なことを書いている”と評価されれば,モデルのプライバシー侵害の問題 は生じないことになりうる。この点については,そもそも誰を基準にその同定可能性を判断する のか,という点が議論の対象となっている。もしモデルのことをよく知っている人を基準にすれ ば,同定可能性は容易に肯定される。これに対し,モデルからは遠い一般読者を基準にすれば, モデルが有名人でない限り,同定可能性は否定されることが多くなる。「石に泳ぐ魚」事件で最高 裁は,この点について明確な基準を示しておらず,議論はまだ続いている最中である(百選 67 事件の 解説を参照)。  この点について,この事件の控訴審判決は,モデルに近い人を基準にした。最高裁はこの点には触れなかった が,全体として控訴審の判断はおおむね正しいと述べている判決であり,あるいは控訴審と同じくモデルに近い 人を基準にする立場だと読むこともできなくはない。だが,ある少年犯罪の報道が問題となった事件で,最高裁 は「一般人」を基準にして判断したことがある。この事件は,雑誌「週刊文春」が,ある 18 歳の少年が犯した凶 悪犯罪について,その被害者の親たちの無念さを訴える記事を掲載したところ,その少年が名誉・プライバシー 侵害のほか,少年法 61 条違反を主張して損害賠償を求めて裁判を起こした,というものである。少年法 61 条は, 20 歳未満の者を「少年」と定め,その「少年」が犯した犯罪を報道する際には,氏名・年齢など少年を特定しう るような情報を掲載してはならないと定めている。これを「推知報道」の禁止という。この事件で最高裁は,問 題となった週刊文春の記事は,少年のイニシャル・仮名などを用いており,「不特定多数の一般人」は,その記事 を読んでも少年を特定することはできないと述べ,この記事は少年法 61 条が禁止している推知報道には当たらな いと判断した(そのうえで,この記事は,「社会一般の正当な関心事」ないし「公共の利害に関する事実」を扱っ ているといえる余地があるため,少年の名誉・プライバシーよりも週刊文春の表現の自由が優位する可能性があ ると判断した。最判平成 15・3・4――長良川リンチ殺人事件報道,百選 67 事件)。この最高裁の判断は,あくま でも少年法 61 条の解釈についてであって,モデル小説の同定可能性という問題に直接つながるわけではないが, 参考までにここで紹介しておく。少年事件報道について関心のある方は,上記百選の解説のほか,松井茂記『少 年事件の実名報道は許されないのか』(日本評論社,2000 年)を参照 。

(2)具体的諸問題 

ア 日本初,「プライバシー」権の承認――「宴のあと」事件(東京地判昭和 39・9・28,百選 60 事件) 

イ ノンフィクション小説と前科・実名の公表――「逆転」事件(最判平成 6・2・8,百選 61 事件) 

ウ モデル小説をめぐって――小説「石に泳ぐ魚」事件 

行政活動の基準(行政法総論)

  1.はじめに (1)行政訴訟において本案上の主張を展開するときには、多くの場合、行政活動の違法を指摘することが求められます。ここで行政活動の違法とは、行政活動が法に 違 ( たが ) うことを意味します。 (2)したがって、行政活動の違法を指摘するためには、まず、その...