特に,憲法判例の射程を,そもそも憲法判例とは何かという点も含めて検討対象に据えた教材として, 近時,横大道聡編著『憲法判例の射程(第 2 版)』(弘文堂,2020 年)を参照。
*とある国家試験の採点実感に,次のような記述がある。これは,国家試験対策という視点にとどまらず,憲法学・法律学を,特に「法解釈学」という観点から学ぶ際の,基本的な留意事項 が示されているともいえる部分もあるため,ここで紹介しておく。
・「司法試験は,法曹となるべき者に必要な知識・能力を判定する試験であるので, 検討の出発点とし て判例を意識することは不可欠であり,判例をきちんと踏まえた検討が求められる。したがって,判例に対する意識が全くない,あるいは,これがほとんどない答案は,厳しい評価とならざるを得なか った。判例に対しては 様々な見解があり得るので,判例と異なる立場を採ること自体は問題ないが, その場合にも,判例の問題点をきちんと指摘した上で主張を組み立てていくことが求められる。」(平成 26 年司法試験の採点実感等に関する意見)
・「昨年度と同様であるが,判例及びその射程範囲が理解できていない答案が目立った。それゆえ,「法科大学院教育に求めるもの」として,昨年度と同じ指摘をしたい。 法科大学院では,実務法曹を養成 するための教育がなされているわけであるが, その一つの核をなすのは判例である。学生に教えるに 当たって,判例への「近づき方」が問われているように思われる。 判例の「内側」に入ろうとせずに 「外在的な批判」に終始することも,他方で,判例をなぞったような解説に終始することも,適切で はないであろう。判例を尊重しつつ,「地に足を付けた」検討が必要であるように思われる。判例の正 確な理解,事案との関係を踏まえた当該判例の射程範囲の確認,判例における問題点を考えさせる学習の一層の深化によって,学生の理解力と論理的思考力の養成がますます適切に行われることを願いたい。」(同上)
・「本問は,全面的に直接に依拠できる判例が存在する事案ではないが,参考となる判例の射程を正確に理解し,本問事例との相違を指摘しつつ議論の展開を可能な限り判例に基づいたものにしようとする 答案は,論述も説得的なものとなり,評価が高かった。」(平成 28 年司法試験の採点実感等に関する意見)
・「本問限りの独自の枠組みを定立しているかのような答案も見られた。しかし,判断の枠組みの定立に当たっては,判例や学説をきちんと踏まえる必要がある。」(平成 27 年司法試験の採点実感等に関する意見)
①以上のように,判例の重要性が強調されていることに,改めて留意されたい。大教室の授業で も繰り返し強調したところではあるが,最高裁判所の憲法解釈は,それがたとえ「理論上」 は誤ったものであったとしても,「制度上」は正しいものとみなされて,いわば世の中を実際 に動かしている(憲法 81 条参照)。乱暴に言えば,結論を宙ぶらりんにして世の中を混乱させるよ りは,誰かが決断して見解を統一したほうがマシだ,ということである。その結論を出す「誰 か」について,憲法 81 条は「最高裁判所」だと述べている。そういう意味で,最高裁判例と いうものは,最高裁判所という国家機関の示した憲法解釈(有権解釈・公定解釈)として,条文と同 じくらいの重みをもっているともいいうる(なお,判例が出ていない分野では,内 閣の示した 憲法解釈― ―政府見解 ― ―が世の中を動かすことになる)。
②これに対して,学説というものは,まさに学者という一個人の意見表明に過ぎない。たとえその見解が,圧倒的多数の学者集団に支持されていても(通説),それはあくまでも学者という個 人・私人の意見表明である。理論的には,Hans Kelsen, Reine Rechtslehre, 2. Aufl. 1960 (Nachdruch 2000), S. 271ff, S. 346ff. ;ケルゼン(長 尾龍一訳)『純粋法学 第二版』(岩波書店,2014 年)。また,長尾一紘『基本権解釈と利益衡量の法理』(中 央大学出版部,2012 年)136 頁以下のほか,内野正幸『憲法解釈の論点』(日本評論社,2005 年)209 頁 , 安念潤司「判例で書いてもいいんですか?」中央ロー・ジャーナル第 6 巻第 9 号(2009 年)85 頁以下。
③とはいえもちろん,これは判例を無批判に受容せよということではなく,学説を完全に無視 してよいというわけでもない。学説・基本書を学ぶ意義として,下記の諸点がありうる。
・学説は,あくまでも個別の事例判断である個々の判例を体系的に整理し,理解するための 補助線となる。いわゆる「三段階審査」や「違憲審査基準」も,一面では,学説が,判例読解のための補助線として提示しているという側面もある。「体系性」を与えるのが,「学」 の本質的作用の一つである。もちろん,判例自身に体系性が欠如している場合,これを批判的に考察する契機としてもこうした学説の営為が有用である。判例は基本的に個別の事例判断ではあるが,その判断に,法に照らした一貫性がなければ,それは法治国家とはいえない(完全に事例ごとにアドホックに判断すればよいのであれば,裁判はくじやサイコロで行っても構わないはずであるし,判決・ 決定に「理由」を付す必要もなくなる。関連して,大林啓吾・見平典『最高裁の少数意見』(成文堂,2016 年)269 頁〔柴田憲司〕。また判例の読み方や「憲法判例」の特性は,中野次男『判例とその読み方』(有斐閣,第 3 版,2009 年)を参照。ただし,そう した体系を「ドグマーティク」として 演繹的に構築するか ,それとも 個別の判例から帰納的に構築するか,という論点 がある。大陸法の制定法主義 と 英米法の判例法主義の違い にも関連する。芦部憲法は,実は後者に傾斜している。だがそこに徹底はしておらず,前者の影響もうけている。前者に根差す三段階審査 論は,芦部憲法学 を克服するために登場 して いるが,うまくいっているかは議論の対象となっている。
・また,当該判例の射程が及ばない事例や,判例が出ていない分野,判例が詳細な説明をし ていない事項などについては,議論の手がかりの多くは学説から獲得せざるを得ないこと となる。なぜその権利が保障されるのか,どのような基準が用いられるべきなのか,とい うような点は,その権利が憲法で保障された「趣旨」(歴史的・哲学的・比較法的論拠等)にさかのぼ りつつ論じないと,説得的な議論にはならない。そのような趣旨等の感得は,基本書読解 を通じて初めて確実なものとなる。
・そして,判例の射程がどこまで及ぶのか,を見極める際にも,学説・基本書の記述の助け が必要になることが多い。また,同じ判例の読み方自体をめぐっても,学説上,あるいは 原告・被告の間で争いがあることがある。この点を知る上でも,学説・基本書読解が必要 になることが多々ある。
・さらに,判例に対する学説の評価を学び,多様な見解に触れることで,法律家に必要なバ ランス感覚の涵養にもつながりうる。理由づけの仕方や批判・反論の仕方を学び,「説得的」 な立論を行うための思考は,こうした学説・基本書との格闘を通じて初めて確実となる。 短絡的なゴールインを目指すと,明快ではあるが浅薄な立論に終わる(芦部・「初版はしがき」参照)。 主張・反論型の出題がなされる理由の一つは,この点に関連しているともいえる(正しい見解・ 真理とは,あらかじめ存在していることの「認識」ではなく,他方で,正し見解など存在しないから個人の好みで「決断」してよいもので もなく,「論証可能性」(説得力)だとするのが,現在の学問的方法論の到達点である)。
・あるいは,学説で比較的広く好意的に受容されている判例と,そうではない判例の確認,「相場観」の見極めのためにも,基本書読解を通じた学説理解は,極めて重要である。
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